森の中には怪が住んでいるという。
だから1人で勝手に行ってはならないという言いつけを彼が破ったのは、けして故意ではなかった。




「……ここは、どこだ?」




遠乗りに来て、ほんの少し道を外れただけだった。
それなのに、この森のなんと深いことか。
途方に暮れて呟いた彼の耳に、不意に小さな音が入ってきた。


かさかさと何かが動く音。
小動物にしては大きなその音は、彼の恐怖心をあおるには充分だった。


「ものの、け……?」


それでも必死に刀を抜こうとする彼に、小さな声がかけられた。




「……子供?」




けして高すぎない、子供の声。
心底不思議そうなその声の主は、潜めていた足音を何のためらいもなく響かせて出てきた。


「やっぱり。どうしたの、こんなところまで」
「……人間?」


痩せぎすの身体を粗末な着物にくるんだ、同じ年頃の少女。
思わずぽろりとこぼれた呟きに、少女は小さく目を見開いて笑い出した。


「一応、私は人間だと思うよ?人間じゃないっぽい人に育てられてはいるけど」
「そうか……」


とりあえず人間だと知ってほっとした少年は、少女に向かって気丈に一歩踏み出す。


「そなた、名は」
「人に名を訊く時は、まず自分から。あなたの名前は?若君」


ぴしゃりとはねのけた少女に問われ、少年は慌てて名乗った。
確かに突然名を尋ねるのは、いささか礼を欠いていたから。


「私は弁丸。そなたは?」
「弁丸、ね。私は、姓は持たないただの


立派な馬を従えた若様。

彼女の笑みを含んだその言葉に、自分の身分が知られているのではないかと、彼は内心ひやりとした。
自分を自分のままで見てくれそうなこの少女を失いたくない。

「真田の次男坊」としてしか接してこない周囲に少し辟易していたから、その思いは真剣だった。


「わ、私は弁丸だ!ただの弁丸だ!」


必死にそう言った彼に、少女はさもおかしそうに笑いをもらした。


「はいはい、それじゃあただの弁丸君、ここより先に行かない方がいいよ。慣れない人間は必ず迷って出てこれなくなるから」


この森は方向感覚を狂わせるのだと、そしてだからこそ怪の住む森と呼ばれるのだと、少女はあっけらかんとそう告げる。


「でも、そなたはここで暮らしているんだろう?」


同じ年頃の少女が平気なのに、自分が迷うとは考えられなかった。
だからこそ首を傾げた彼に、少女は小さく笑う。


「私はそれこそ、ずっとこの森にいるんだもの。迷うわけないよ」


だから大丈夫と言うと、少女はおもむろに馬に近寄った。

気性が荒いとは言えないが、知らない人間にまで懐く馬ではない。
それなのに何故か首筋をなでる少女にはおとなしく従っていて、彼はひどく驚いた。


「……は、動物を扱うのに慣れているのか?」
「どうかな?私はそんなに意識したことはないんだけど……」


のんびりと答えながら、少女は何事かを馬に話しかける。
それを受けた馬は、了解したかのように一ついなないた。


「弁丸。君がちゃんと帰れるように、私が途中まで案内するよ。この子にも頼んでおいたから、多分元の位置まできちんと戻れると思う」
「あ……ありがとう」


動物と会話できるこの少女は、本当に人間なのだろうか。
怪ではないのだろうか。

そんな思いがちらりとよぎったのに気づいたのか、少女は不満そうに口を尖らせる。


「私は人間だよ、弁丸。育ててくれた人は人間かどうか怪しいけど」
「けれど   
「それを言うなら、変化の術とかができる忍者の方が人間なのかと疑っちゃうよ」


……確かに。


思わず納得した彼は、うながされるままに馬に跨がった。


はどうして、こんなところに?」
「さあ?気がついたらここにいたから、よくわからないなあ」
「育ての親は何も言わないのか?」
「うん。ていうか、そもそもあの人がしゃべるところをあんまり見ないからね」
「それは……」


大丈夫なのだろうか、色々と。


そう思いはしたけれど、あえてそこには触れずに次の問いを口にする。


「不便ではないのか?」
「何が?育ててくれる人がしゃべらないのが?それとも、こんな森にいることが?」
「ええと……森に、住んでいて」


本当のことを言うのがはばかられて、曖昧にごまかしてしまう。
わかっているよと言いたげに笑った少女に少し恥ずかしさを感じながら、彼は小さく答えた。


「生まれた時からここにいるようなものだからねえ。外の生活が想像つかないかな」


物心ついた時からこの森で暮らしている少女は、事もなげにさらりと言い切る。
何もかもが揃う城での生活しか知らない彼にとっては、ここでの生活など想像もつかないのに。


「薬草もたんとあるし、食料もあちこちに生えてるし。お肉が食べにくいのがちょっと困るけど、お魚でいっかなあって」


慣れれば何ということはないと笑う少女は、馬の背を軽くなでた。


「私には、外の生活の方が不便に思えるけどね。食べ物も薬もお金とかいうので買わなきゃいけなくて、お水も地面のずっと下から汲まなきゃいけないんでしょ?しかも、決まったところから」


確かに、そう考えると街の方が不便なのかもしれない。
ここならば、生きるために金銭は必要ないのだから。
生き延びるための術を手に入れる必要はあるけれど。


「そう……かも、しれないな」
「でしょう?」


嬉しそうに答えた少女がぴたりと足を止め、どうしたのかと正面を見た彼は、いつの間にか森の出口まで来ていたことに気づく。
そして同時に、気づいていなかった自分に驚いた。


   そこまで会話に夢中だったのか。


「それじゃ、私が案内できるのはここまで。後は馬に連れて行ってもらってね」



思わず口をついて出た呼びかけに、彼自身が驚いた。


何を言いたいのだろう。
どうして呼び止めたのだろう。


「ん?」


じゃあねと言おうとした少女が、小さく首を傾げた。


   一緒には、来れないのか?」


このまま別れるのは惜しかった。
できればこの不思議な少女と館で共に暮らせたら、どんなにおもしろくなるだろう。

そんな彼の思いはしかし、少女には受け止めてもらえなかった。


「駄目だよ、弁丸。私はきっと、森からは出られない」
「え……?」
「私はきっと、森でしか生きられない」


だから、ここまで。


そう言って少女が指差した方向を見やると、遠くから小さく聞き慣れた声が届いた。


「六郎……」


必死に探してくれていただろう、同年代の家来の声。


「ほら、待ってる人がいる。早く行ってあげなよ」
   また、ここに来てもいいか?」


つながりを保っていたい。
もしかしたら彼女は本当に怪かもしれなかったけれど、そんなことなどどうでもよかった。

そろりと訊いた彼に、彼女も小さく苦笑した。


「……また迷子になってたら、助けてあげる」


言外の許可。
けれど彼には、それで充分だった。


「また会おう、
「あんまり迷子にならないでね、弁丸」


森の境目で短い別れの言葉を交わす。
数歩馬を進めた彼がもう一度振り向いた時には、少女の姿はもうなかった。


「……怪か、人間か」


さてどちらだろう。
どちらでもいいかと、彼には珍しくそう思った。