「いってらっしゃい」
毎朝変わらず聞く言葉。
でも、「お帰りなさい」がまた聞ける保証なんてどこにもない。
そうだろ?






君は君でいたいのに






ここでのの存在は、ひどく不安定なものだ。
俺の家に居候してる、15歳。はっきり言えるのはそれだけ。
が自分の存在を証明できるものは、他には何もない。
住所も家族も学校も友達も、は何も覚えちゃいない。


いわゆる、記憶喪失、というものらしい。


普段は全然そんな素振りも見せることなく振る舞ってるけど、時々何かを考えこむように遠くを見てることがある。
そんな時、俺はとてつもない不安に襲われるんだ。
いつかが、急に消えちゃうんじゃないかって。

「ちょっと」
「あいたっ、何すんのよ、リョーマ」
「何ぼーっとしてんのさ。馬鹿に見えるよ」
「なっ……馬鹿じゃないもん!大体、ラケットで人の頭殴らないでよ。貴重な脳細胞が死んじゃうでしょ!」
だから、見つけたときにはちょっかいを出してるんだけど、その度にはまっすぐ俺を見る(睨んでくるけど全然怖くない)
それはが確かにここにいるって言ってるみたいに見えて、俺は少し安心する。

「ガットじゃん」
「ガットでも痛いもんは痛いの!」

そりゃガットもそれなりに痛いけどさ、フレームよりは何倍もいいと思う。
「軟弱だね」
「私は女だからいいの」
胸張って言うことかよ、そんなの。




は人にくっつくのが好きだ。触るというより、くっつく。
背後から俺に抱きつくのなんてしょっちゅうだし、先輩たちの腕に自分のそれをからませたり頭をなでたり(これは俺もやられるけど)、前から抱きついたり手を握ったりするのも比較的よく見かける。

特に英二先輩と不二先輩とは、よく一緒にいるみたいだ。
あと、すごく意外だけど、部長。

「手塚君は怖くないよ。すごく優しい。ただ、それを表に出すのが少し下手なだけなんだよね」
不器用さんなんだねっては笑うけど、出会ってからまだ少しなのにそこまでわかるのはすごいと思う。
そう思って素直に言うと、は驚いたような顔になった後、どこかぎこちなく笑った。

   もしかしたら、前にもそういう人と友達だったことがあるのかもね」

それを聞いた瞬間、俺は自分を思いっきり殴りたくなった。
を傷つけてどうすんだよ!

「……ごめん……」
顔を見れなくてうつむいたら、は珍しく俺を正面から抱きしめた。
「やだなあ、何気にしてるのさ。謝るなんてリョーマらしくないぞ」

ぐいっと引き寄せられて、ちょうど俺の顎がの肩口にあたる。
俺達とは全然違う柔らかい身体で包みこまれて、何だか落ち着かなくなった。
「ちょ……」
「あー、照れてる?耳赤いよ」
くすくすくすくす、耳元で笑う声がする。
からかわれてるみたいでちょっと悔しかったけど、まあいいかと思えた。

が笑うなら、それでいい。

俺も手を伸ばして抱きしめ返す。が動揺する気配が伝わってきた。
……やっぱりは、自分からスキンシップをするのには慣れてても、他人からされるのには全然慣れてないみたいだ。
のくっつき癖は、多分寂しさとか心細さとか不安とか、そういう負の感情からきてるんだろうと思う。
くっつくことぐらいで少しでも気がまぎれるなら、俺達はどうってことない。

は絶対に弱音を吐かない。
来たばっかの頃に1回、すごくふさぎこんで帰ってきたことがあったけど、そのときも何も言わなかった(母さん達は風邪かと思ったみたいだけど、俺は何となく違うんじゃないかと思った)(先輩達には風邪って言っておいたけど。余計なことを言うと色々めんどくさくなる)
ただ次の日、髪を切っただけだった。

何か信頼されてないみたいで、少し嫌だった。俺達は仲間だろ?
「ね、似合う?似合う?」
髪を切って眉を整えたら、はぐっと大人っぽくなってた。何だか悔しくてそっぽを向く。
「……別に。いいんじゃない?」
「ひどーい、少しは真面目に答えてよ!」
怒るはいつも通りで、だから安心した。

「まだまだだね」
言ってやると、はむくれて黙りこんだ。
……何も変わってない。




はよく歌を歌う。ポップスを歌うことは余りなくて、洋楽(主にABBA)とかクラシック(オペラ……だと思う)とかだ。
時々、全然知らない曲もある。

「どこでそんな曲覚えたのさ」
「さあ?覚えてない」

あっさりと言って、はまた歌う。
の声はポップスよりも、むしろオペラとかのクラシックの方面に向いてると思う。
だからって、ポップスの方面が駄目だって訳じゃないけどさ。
どこで覚えたのかも知らない歌だけが、昔のと今のを繋ぐ唯一のもの。

はいつでもという存在でいたいのに、すっぽり抜けた記憶がそれを邪魔してる。
は記憶がないから、俺たちのところにいる。
でも、記憶が戻ったら?

いつ記憶が戻るかわからない。
戻ったらきっと、は自分の居場所に戻るだろう。
そういう不安定な均衡の上に、今の生活はある。

だから俺は、いつが消えてしまうか、いつもびくびくしてる。
俺だけじゃない、レギュラー全員がそうだ。
「行ってらっしゃい」って送り出されても、帰った時にまだいて、「お帰りなさい」って言ってくれる保証なんて、どこにもないだろ?
だからみんな、しょっちゅうを呼びつける。
ここにいるんだって、確認したくなる。

記憶を取り戻して完全な自分になるのと、今のまま俺たちといるのと、どっちがにとって本当に幸せかはわからないけど。


まあとりあえず、記憶が戻ったからって、俺達がそう簡単にを手放すとは限らないけどね?