、私はそろそろ帰るわね」


ある日突然、お母様がそうおっしゃった。
すっかりお母様との生活に慣れていたから、私にとってはまさに青天の霹靂だ。


「ど、どどどどうなさったんですかお母様!?」


せっかく一緒にいられるのに、また離れ離れになるのは嫌だ。
泣きそうになりながらすがりつくと、優しい手で髪をなでられた。


「あまりこの聖域の民草に負担をかけ続けるのもよくないわ。それはわかるわね?」
「……はい」
「ならば、私が帰る理由もわかるわね?」
「…………はい…………」


お母様がここにいらっしゃることで、聖域の皆さんがとても気を遣ってくださっているのは事実だ。
女官さんも沙織さん自らが選び抜いたプロ中のプロだし、食事だってできる限り天界のものに近づけている、らしい。
私は天界に行ったことがないから、いまいちよくわからないけれど。


でも、それでも、お母様とお別れするのは寂しい。


お父様とは割と頻繁にお会いできるけれど、お母様とは冬の間だけだ。
だから今回、来てくださって驚いたけれど、とても嬉しかった。

この貴重な時間の中で、私はお母様に何かをしてさしあげられただろうか。
もっともっと、初めてちゃんとお会いしたお母様に、親孝行をしたかった。

後悔ばかりぐるぐると思い浮かべていると、細くて白い指が優しく額を突いた。


「もう、ったら。また変なことを考えていたわね?」
「へ、変なこと……」
「あなたはあなたでいるだけでいいのよ。それが誰もにとって、いいことになるの」
「私のままでいる……?」
「そう」


とろけるように微笑んだお母様に、ぎゅうと抱きしめられる。
お花のいい香りがいっぱいに広がって、思わず髪に顔をうずめてしまった。

くすくすと笑う声が聞こえるけれど、いいんだもん!
しばらくお会いできないなら、この際思いっきり甘えちゃうんだもん!!


「でも、お母様。私、なんにもできていません」
「いいえ。あなたは充分に己の務めを果たしているわ」
「……そうなんですか?」
「もちろん、可愛い私の子」


桜色の唇が、そっと額に触れる。
お母様のキスは、お父様のものよりも軽やかで柔らかい。
それももう、しばらく受けることができないのだと思ったら、勝手に涙があふれてきた。


「ううぅ……」
「あらあら、は泣き虫さんね」
「だって、だって、お母様と……っ!」
「大丈夫よ、すぐに会えるわ」


シルクのハンカチで、お母様が頬を拭ってくれる。
その優しい手つきに、また涙があふれてきた。


「さあ、笑いましょう。次に会う時は、あの人と3人で一緒なのよ」
「お父様と……」


今までずっと、お父様と2人きりだった。
それが寂しいと思ったことはなかったけれど、やっぱり3人が一番いい。
そんな思いが顔に出ていたのか、お母様が優しく微笑んだ。


「そうよ。親子3人で、いつも一緒にいるの」
「いつも?」
「ええ」


うなずきに導かれて、思わず顔がほころぶ。
それを見たお母様がますます優しく微笑んで、それだけで幸せになれた。


ああ、お父様。

やっぱりお母様をお嫁さんに選んだのは正解でした!
こんなに綺麗で優しくて素敵なお母様、世界中探したってどこにもいません!
お父様が死にそうになりながらも攫ったのがわかります!


ほわんとした空気が漂うそこに、沙織さんが朗らかな声と共に入ってきた。


「ペルセフォネー、もうそろそろ帰るのでしょう?」
「ええ、アテナ」
「やっぱり。天界の香りがしたから、すぐにわかったわ」
「え!?」


天界の香り!?
そういえば、今日のお母様はいつもよりもずっといい匂いがしたけれど、あれってもしや天界の香り!?
天界ってそんなにきらびやかなところなの!?


でも、ということは、お母様はもう今朝から天界に帰る準備をしていたということで。
……やっぱり寂しいと思ってしまうのは、私のわがままだろうか。

冬まではまだ長い。
それまでお会いできないと考えたら、お母様にくっついて離れられなくなってしまった。


「まあ、さんったら甘えん坊さんなんですね」
「うふふ、可愛いでしょう?」
「ええ、とても!」


え、あの、ちょっと待って。
沙織さんって私よりも年下……!(体型は負けてるけど!)

甘えん坊……甘えん坊って……!
否定できない自分が悔しい……!

ショックを受けている私をよそに、女神お二人の会話は続く。


「お父様によろしくお伝えくださいな」
「ええ、わかったわ」
「くれぐれも、さんに手を出さないようにと」
「もちろん」



にこやかに言葉を交わしてお母様は帰っていったけれど……二人とも目が怖かったです、お母様。
沙織さんが特に怖かったです。












(というわけで、お花編も一段落。次で最後のシリーズ!)