何を読んでるの?」
「ああ……


花咲き乱れる丘の上、人気のないそこで、彼は本を読んでいた。
木の幹に持たれた手元を覗きこむと、彼女が数学で見慣れた文字が並んでいる。


「相変わらず、ギリシャ語は解読不能だよねえ……日本語の方が難しいらしいけど」
「母国語は誰でも簡単に思えるものさ」


ギリシャ語よりもよほど簡単だとこぼしたに、イリアスは本を閉じて微笑んだ。


彼女がどこから来たのか、正確なことは誰も知らない。
戦う術を持たねばならない場所からなのだという、それだけはわかるけれども。


「で、何読んでたの?」
「ホメロスだよ」
「うわあ……」


嫌な符合だと顔をしかめたが、イリアスに目で隣を指す。
座ってもいいかとのその問いかけに微笑んでうなずき、イリアスも彼女が座りやすいように少しだけずれた。


「まさか、『イリアス』じゃないでしょうね?」
「惜しい。『オデュッセイア』だ」
「……うん、それはそれで嫌だけど」


叙述詩とはいえ、彼が戦記物を読むのは何だか不似合いだ。
どうせならプラトンでも読んでいればいいのにと思いながら、が彼の本を受け取り、たどたどしくギリシャ語を読んでいく。


「メ ティメースメン……ト、ウス……?」
「これはトゥース。OYはUの発音をするんだよ」
「デルタとかシグマとか、そういうのはわかるけど……どうしてYがイとかウとか読むのか、どうしても慣れないわね」
「そうか?」
「まあ、外国語なんてみんな、そんなものだよね」


日本語も他から見たら十分不規則だと肩をすくめ、が大きく伸びをする。
その姿が奔放な猫のようで、イリアスはそっと目を細めた。


   この異端なる客人は、新しい風を運んできてくれた。


誰もが知らずに影響を受けて、けれどそれは、けして悪いものではないのだろう。



「ん?」




「ここに来てくれて、本当にありがとう。きっと誰もが、君との出会いに感謝しているだろう」




「……やめてよ」


ふいと目をそらして手をひらひらさせるの耳が、うっすら赤い。
彼女に気づかれないように小さく笑ったイリアスは、今度こそ本を地面に置いた。


「あんたって、本当にずるい」
「ああ」
「年下のくせに」
「おや、それは初耳だ」


ひょいと肩をすくめたイリアスを軽くねめつけて、が信じてないなとぼやく。

東洋系の彼女の顔は、おそらく実年齢よりも若く見えるのだろう。
それがどれほど違うのかはわからなかったが、イリアスにはせいぜい16ほどにしか見えなかった。


「ねえ、
「今度は何?」
「……平和が、ほしいかい?」


が目を見開いたが、イリアスは気にしなかった。

この、自分よりも年下に見える少女に、どうしても訊いてみたくなったのだ。
自分達のしていることは、はたして無駄ではないのかと。


絶句して彼を見つめていただが、ややして苦く笑った。




   それを私に、訊くの?」




何重にも意味がこめられたそれに、イリアスも苦笑する。


「君だからこそ、さ」


部外者の彼女。
この世界とも関わりがない彼女。
戦う術を持つ、彼女。

平和がほしくないわけがない、けれど「外から見た」この世界の平和を評してほしかった。


泣きそうな顔で笑っていた彼女は、やがてまっすぐに彼を見つめる。


「ディーにも言ったけどね、イリアス」


けして涙をこぼさずに、漆黒の瞳を太陽で青く輝かせて。




「私は、あんた達が幸せなら、それでいいの。顔も知らない人達なんて、どうでもいい」




きっぱりと言い切ったは、すがるようにイリアスの首に抱きついた。


「生きて、イリアス。誰に非難されてもいい、私が全て背負うから。あの馬鹿みたいに、勝手にしょいこんで勝手に死なないで」


その声が小さく震えたことに、双方知らぬ振りをする。
イリアスがそれにうなずけないのも、が彼らの存在を肯定できないのも、互いに痛いほどわかっていたから。












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きっとヒロインにとって、ザックスの死は深いトラウマ。
信じていた全てが崩壊したあの日、彼女はたくさんのものを一気に失ったから。