思えば、あれが全ての始まりだったのだ。
会社帰りのほろ酔い状態、そんなちょっぴり浮かれた気分で、私は家の近所にある林に入った。
林といっても、そこはご近所でも有名なお散歩コース。
休日ともなれば、仲のいいお年を召した夫婦がのんびりと歩くような場所だ。
ちょっと酔いを覚まそう、そう思っただけなのに。
なのに、なのに。
気づいたら。
「……ここ、どこ?」
見慣れた林とは全く違う、深い森とでも言っていいような場所に、私はたどりついていた。
いやいやいや、ちょっと待て。
どこをどう歩いても、あの林の中にこんな木がいっぱいの薄暗い場所はないはずだ。
しかもこの場所、 何だか、獣臭い。
ありえないと気づいた瞬間、身体に残っていたお酒が一気に抜けた。
そんな、馬鹿な。
ここは一体、どこ?
歩きにくいヒールで必死に辺りを捜索して、その間に何度も転んで。
藪に引っかかってストッキングが破れたし、その時に怪我もしてしまった。
あちらこちらから獣の声がするし、人の気配なんて全くないし。
本当に、ここは一体どこなの?
途方に暮れて、それでもなんとか寝る場所を確保しなければならない。
右も左もわからないけれど、これだけは何となくわかった。
地面の上で寝れば、翌日私の命はないだろう。
だから、子供の頃を思い出して、必死に樹に登った。
寝心地最悪、しかも登った時にまた手のひらに怪我をした。
多分腿の辺りにも怪我をしていると思うんだけれど、それよりも手のひらの痛さの方が強くて泣きたくなる。
どうして私が、こんな目に遭わなければならないんだろう。
泣きながら過ごした夜は、結局ほとんど眠ることもできずに終わった。
翌日、お昼過ぎまでは何とか我慢できたけれど、お腹が空いてたまらない。
ぐうぐうと鳴るお腹を抱えながら、昨日の夜と同じように森を歩き回る。
食べられそうな茸を見つけて、生のまま食べてみた。
おいしくなかった。
図鑑で見覚えのある野草を見つけて、やっぱり生のまま食べてみた。
おいしくなかった。
運良く川を見つけて、少しためらったけれどそのまま飲んでみた。
おいしかった。
喉がからからだったことに、今更気づいた。
その水辺に生えている草に見覚えがあって、何かと思ったら クレソンだった。
こんなところにこんなものが生えているのかと驚きながら、ぷちぷちと何本か手折る。
今度は生でも、まあまあおいしかった。
お塩があれば、きっともっとおいしく食べられる。
それからまた森の中を歩き回って、野犬に襲われそうになって必死に逃げて。
狼だったのかもしれないけれど、そこまで区別をつけられるほど余裕がなかった。
怖くて、ただ怖くて。
川の回りからなるべく離れないようにしながら、数日を過ごした。
あからさまに削げ落ちていく私の肉に、ダイエットだと喜ぶ暇はない。
ひもじい。怖い。苦しい。痛い。
色々な感情が混ざりあって、頭の中を駆け巡る。
食べ物はクレソンと数種類の植物(おいしくはないけれど、食べても害がなさそうなもの)しか口にしていないから、思考回路がぼうっとしてきていた。
毎晩樹に登るのも、だんだんしんどさが増してきている。
私、このまま死ぬのかな。
この森、どこまで続いているんだろう。
ぐったりと樹にもたれかかりながらそんなことを考えて、人間はこんなに簡単に死ぬものなのかとぼんやり思った。
死にたくない。
けれど、今の私には、生き抜くだけの知識も技術も圧倒的に不足している。
どうしろというのだ、これで。
絶望が目の前を真っ暗にする。
違う、本当に目の前が真っ暗になってきているんだ。
まずい、このまま意識を失ったら、野犬とかのいい餌に 。
目を開けると、今までとは景色が一変していた。
木の天井。
柔らかい布団。
あまりの急展開についていけず、ぱちぱちと瞬いていると、不意に黒い影が頭上から覗きこんできた。
「ここは ?」
訊いても、男の人は答えてくれない。
ただ、身振りであまり動かないようにと教えてくれた。
「あなたが、助けてくれたの?」
これには、小さなうなずきが返ってくる。
「そっか……どうもありがとうございます」
頭を下げるために起き上がろうとしたら、慌てて止められた。
よく見れば、傷だらけだった手や腕に、丁寧に包帯が巻いてある。
きっとこれも、この人がしてくれたんだろう。
「あの、傷の手当てとか、ありがとうございます」
ふるり、とかぶりを振られる。
気にするなと言うように頭に手を置かれて、久しぶりの人の温もりにうっかり涙腺がゆるんでしまった。
急に泣き出した私に男の人はおろおろとしたようだったけれど、だまって手拭いで涙を拭ってくれる。
それがまた嬉しくて、泣きながら笑うという変な状態になってしまった。
「本当に、色々とありがとうございます。私、って言います。あなたのお名前を伺ってもいいですか?」
ひとしきり涙が出切った後でそう訊くと、男の人はひどく困ったような表情で小首を傾げる。
教えたくても教えられない、そんな様子で。
「……じゃあ、日向って呼んでもいいですか?」
兜をかぶった男の人から覗く、赤い髪。
それが夕焼けの太陽そっくりだったから、そして私に温もりをくれた人だったから、なんとなくそう呼びたかった。
戸惑った様子を見せたけれど、結局うなずいてくれたその人に、私はとびきりの笑顔を向けた。
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