港町横浜は山手、凄腕の探偵がいるらしいというのは、この近辺に住む者ならば誰でも知っている噂だ。

どんな難事件でもさらりと解決し、微笑みのうちに全てを導く。
鮮やかな手腕と悠然と構えるその在り様に、いつしか彼は神なのではないか、いや仙人が化けているのだなどと、まことしやかにささやかれるようになった。

そんなわけで、氾惇明が「氾仙」と呼ばれるようになったのは、ある意味当然のことなのかもしれない。












そんな畏敬をこめられて呼ばれる青年は、ロッキングチェアにゆったりと腰掛けながら大きなあくびを一つ。


「やれやれ、だから私は人間ですってば。皆さん何を言うのやら……あ、隼雷、私ちょっと出かけてきますから」
「待て待て待て!どこ行くつもりだ、お前!」
「ヨコハマベーカリーでイングランドを買って来ます」


いそいそと財布をポケットにしまう惇明を、隼雷が首根っこを掴まんばかりの勢いで止める。


このやっかいな主は、ちょっと目を離すと非常にまずい。
色々なところで厄介事に首を突っ込んで、何やら騒ぎを起こすのだからたまったものではない。


「俺が行くから、お前は家でじっとしてろ」
「いえいえそんな、隼雷の手をわずらわせるほどじゃありませんよ。それにあなた、これから仕事でしょう?」


扇子を取り出してはらりと広げた惇明は、にこりと綺麗に微笑んだ。


「先程依頼を一つ、引き受けておきましたから。急な話で手の開いている者を探す暇もありませんでしたから、とりあえずあなたをやると伝えましたよ」


完璧な笑顔の中に「邪魔者の駆逐完了☆」と書いてあるのは、絶対に気のせいではない。
明らかに堂々と書いてある。

殴りたい衝動をこらえながら護衛に出かけた隼雷を眩しい笑顔で見送り、惇明はいそいそと屋敷を後にした。


「ふふふ……やっとパン屋ができましたか。まったくもう、嬉しくてたまりませんねえ」


横浜万歳!と言わんばかりの笑顔でほくほくと呟き、惇明は通りを歩いて行く。


華僑としてこの地に来た惇明はしかし、港に降り立った時、懐かしくてたまらなかった。

着物を着た人々。
飛び交う日本語。
そして何より、澄んだ空気の向こう側に見える、見事な富士山。


「日本……!」


巡り巡ってようやっと、「」が生まれた地に戻ってくることができたのだ。
感動のあまり、思わず涙をこぼしそうになった。
それを郷愁と勘違いされ、隼雷に思いっきりうさんくさそうな目で見られ、郭に意外そうな顔をされたが、それはまあ置いておいて。


「ハムエッグにバターを塗ったパン、それにサラダ……」


洋食の朝食が食べられるとあって、惇明はとてもご満悦だ。
郭に袋をどさりと渡し、明日の朝食のオーダーをすると、書斎にこもると告げる。


「お客さんが来たら教えてくださいね。あ、娘娘は問答無用でお帰り願っていいですよ。あの人の持ってくる仕事、鬼なんですもん」
「ほう……何を失礼なことを言いやがってるんですか、氾仙」
「げ」


書斎に行こうと一歩踏み出した惇明が、背後から聞こえたおどろおどろしい声に思わず声をもらした。
どうして通したと郭を恨みがましく見やっても、「断れるわけないじゃないですか旦那様あああああ!」と視線で泣きつかれる。
郭が彼の脅しに勝てるはずがないとわかってはいても、惇明も必死だ。


「どうしてあなたがここにいるんですか。仕事なさい、仕事」
「それはこっちの言葉です。あなたが働かないから、もう仕事がたまってたまって仕方がないんですよ」


言いつつ娘娘と呼ばれた青年は、どかどかと食卓に書類の束を積んでいく。
見る間に5つ6つと増えていく山に、惇明は蒼白になって声を上げた。


「ちょ、娘娘!私探偵。役所の仕事なんて守備範囲外ですよ!」
「黙らっしゃいこの似非探偵。使える者は何でも使う、それがこの世の理でしょうが。副業で何でも屋をやってるくせに、私の依頼は受けられないんですか?」


女性と見紛うばかりの麗しい顔が、凶悪な表情で惇明に詰め寄る。
逃がしませんよとばかりに胸元をつかまれ、惇明はうなだれてうなずいた。


「やりますよやりますよ、もう……。どうして私がこんなに大量の書類を……」


さめざめと泣き真似をしてみても、娘娘はガン無視だ。
人の数十倍は速い処理能力を持っていながら、何をふざけたことを抜かしているんですかこのサボり魔。


書斎に行くどころかなぜか食卓で延々書類を格闘する羽目になった惇明は、部外秘であるはずの案件をうなだれながらさらさらと片づけていく。
隙あらば逃げ出そうと目論んではいるが、その度に舌打ちをしそうな娘娘にガッシリ腕をつかまれていた。


「何をぐずぐずしてるんです。ほら、手が止まってますよ」
「娘娘、あなた鬼ですか」
「市長のくせに働かないあんたが悪いんでしょう。はい、これも追加で」


やっぱり隣で仕事をしつつ、娘娘は自分のサインを入れた書類を横に滑らせる。
実は臨時市長なんてものを押しつけられている惇明、早く正式な所長が派遣されてこないだろうかと県庁を恨むばかりだ。




「一体いつまで私に押しつけるつもりなんですか、あの狸……」




ぼそりと呟いた言葉は、幸か不幸か娘娘には届いていないようだった。


「旦那様、芳桂殿、お茶が入りました」
「ありがとうございます、郭。さ、娘娘も休憩を   
「この人に休憩なんぞいりません。2人分私がいただきます」
「娘娘……!」


私、過労死しちゃいますよ!


惇明の悲鳴もどこ吹く風、娘娘は涼しい顔で香り高い中国茶を飲んでいる。
処理をする手を動かさずに(止めると娘娘の拳が待っている)休憩!休憩!と訴える惇明の耳に、がちゃりと扉を開ける音が聞こえた。


「何だよ、護衛って金の運搬じゃ   またか、惇明」
「ああ隼雷、お帰りなさい。何事もなく終わりましたよね?」
「いや、途中で手が空いている奴を1人調達したから   


支払いの案分が変わりそうだと告げようとした瞬間、惇明の顔がぱっと輝いた。


「私の出番ですねそうですね。というわけで娘娘、私は所用ができたので出かけてきますね」
「あ!氾仙、何を勝手に   
「ふふふ、後はよろしくお願いしますよ」


一瞬の隙を突いて窓からひらりと逃げ出した惇明を見送って、娘娘はぞっとするような笑顔を浮かべた。


「覚えてなさい、氾仙……。今度来た時はもっと大量に持ってきてさしあげますよ」


役所にはこの10倍はあるのだからと笑う彼の周りには、極寒の地もかくやという程の嵐が吹き荒れていた。
さりげなくそれから避難をしつつ、隼雷はこっそりと主に向けて手を合わせる。

頑張れ惇明、これも報いだ。


……どうやら、助けようというつもりはこれっぽっちもないようで。