澱みに浮かぶ泡沫は。






泡沫うたかた






「あ、方丈記」


英二が訳に苦しんでる古文のノートを覗き込んで、ちゃんがそう呟いた。
それを聞いた英二ががばっと振り向いて、涙目で彼女を見上げる。

ちゃん、わかるの!?」
「だってこれ常識じゃん」
すぱんと返す。

そうだよね、わざわざ授業でやらなくても、最初の一文ぐらいは知ってるよね。

「教えてよー!不二ったら、知ってるくせに教えてくれないんだにゃ!」
とうとう泣きついた英二を困ったように見下ろして、ちゃんがこっちを見た。


   如何はせむ」

「もとより我の努めるところをおこたるなれば」
「あさましきか」
「げに。わりなかれど、いま少し口惜しからむ」

多分英二にはわからないだろう会話。
それがまた、面白い。

「2人とも何言ってんだよー!」
「え?英二君はアクロバットが得意だよねって」

笑顔でさらりと、ちゃんが嘘をつく。

「嘘だ!」
「あ、ばれた?」

ばれても全然悪びれることなく、くすくすと笑っている。
俺もそれにあわせて笑うから、部室には2人分の笑い声が密やかに響いた。

「2人して俺を馬鹿にするにゃ!」
「されど、己がわろき癖どもいみじからむ」


「わろき、ね」


僕が言った言葉に、ちゃんが苦笑した。その通りだねと呟いて。

「よかったねー、英二君。まだ『わろし』って言ってもらえて」
「何がよかったのかわかんないよ」
「お勉強しようね☆」

にっこり笑顔で言われては、英二も黙るしかないよね。




「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住みかと。またかくのごとし」

ノートを見ずにすらすらと言ったちゃんは、僕に向かってぱちりとウインクした。
何を意味するのかを察して、僕もそれに続く。

「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」


   というわけで。これが答え」


「へ?」

あーあ、英二はやっぱりわからないか。
せっかく僕が言った中に答えがあったのに。

「あのね、英二君。今不二君が言ったのは、何て作品?」
「……聞いたことはあるけど、何?」

てへ、と笑った英二の頭に、ちゃんの手がひらめいた。すごい早業だ。

「平家物語!しっかりしてよ、もう」
「ごめんごめん」
「まったく……。それで、このテーマは何かわかる?」

これはこの間の授業でやったよね、英二。

「えーっと……不二ぃ、何だっけ?」


……やれやれ。

思わずため息をつきながら、肩をすくめて一言。


「世の無常観」

「不二君正解。賞品に飴あげる」

はい、とウェルダースの飴を渡された。
やった、好きなんだよね、これ。

「ありがとう」
「いえいえ。   で、英二君。それが答えだとすると、方丈記の方も……」

ちょこんと首を傾げたちゃんに促されて、英二がひらめいたようにびしっと手を挙げる。

「あ、世の無常観がテーマなんだ?」
「その通り。偉い偉い」

わしゃわしゃと英二の頭をなでると、ちゃんは机についていた手を離した。

「さてと。じゃ、私はもう行くから。2人とももうすぐ部活が始まるよ」
「うん。ありがとう」




「ねえ、不二」
「何?」

ちゃんって、古典得意なんだね」

ちゃんが部室を出て行ってから、英二が感心したように言った。

確かに、僕も驚いた。
まさか古語で会話ができる日が来るとは、思ってもみなかったから。

「そうだね。意外だったよ」

もしかしたら、手塚や僕よりも上かもしれない。

「楽しいな」
口元に笑みを浮かべて、ひっそりと呟く。

これから英二や越前をからかう時には、彼女と2人で古語で話そうか。

「英二君?不二君?ほんとにそろそろ来ないと、手塚君来ちゃうよ?」
顔を出したちゃんに、微笑みかける。

「ねえ、ちゃん」
「ん?」


「たはぶれに 言霊交わし 菊の花 いかに楽しき 秘めたる思ひ」


いきなり詠みかけたら、ちゃんは少し驚いたようだった。

「ええと……それって、色話じゃないよね?」
「うん」

けして、恋の歌ではない。それは彼女もわかっている。


「それじゃ。   いとかなし たはぶれあそぶ 菊の花 菊と言へども つゆにしも濡れ」


「つゆ?」
「うん、つゆ。2つ、ね」
「なるほど」

2人でくすりと笑う。   交渉成立。

「明日からが楽しみだね」
「そうだねー」

   何なんだよ、もうっ!!」

わかってない英二がおかしくて、やっぱり2人で声を出して笑ってしまった。












文中古語の現代語訳について