「もういや」
ぽつりと呟いて、ベッドに倒れこむ。
会社が嫌で嫌でたまらない。
仕事に不満があるわけじゃない。
やりたいことはできていないけれど。
いきなり異動を命じられて、しかもそこが社員から嫌われる人事で。
何よりも、上司と決定的に合わないのがつらい。
会社に行くのがつらくなった。
毎朝起きるのがしんどくなった。
起きるだけで、気力を振り絞らなければならないほどになった。
人事になった人は誰でもやつれると言うけれど……納得できるというものだ。
私、そんなに強くない。
全身が脱力するような感覚の中、流したくもないのに涙が勝手に流れてくる。
「……もう、いや……」
日に日に気力がなくなっていく。
明日は会社に行けるだろうかと、ぼんやりと携帯を眺めていたら、不意にそれがせわしなく点滅し始めた。
着信だとわかっていながら、指一本動かせない。
動かなきゃ、電話を取らなきゃ。
明日の仕事に関する電話かもしれない。
必死に気力を振り絞って携帯を手に取ると、のろのろと通話ボタンを押して耳に当てる。
「……はい」
「瞬か、すまないが明日の飛行機は――」
怒濤のごとく言葉が流れてきて、思わず瞬いてしまった。
……これは確実に、間違い電話だ。
そう思うのと同時に、向こう側からあふれてくる言葉もぴたりと止まった。
数瞬の沈黙の後、デジタルに変化された声が、戸惑ったようなものになる。
「……すみません。瞬の携帯ではありませんか?」
「……違うと、思います……」
携帯の間違い電話かあ、珍しいなあ。
ぼんやりとそんなことを思いながらうなずくと、相手はひどく焦ったように謝ってきた。
「すみません!相手が誰かの確認もせずに、用件だけをまくしたてたりして……」
「いえ、大丈夫ですよ」
仕事の電話かと張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れて、気の抜けた声になる。
それにしてもいい声の持ち主だと感心して、親指で通話を終える準備をした。
「それでは――」
「……どうかしましたか?」
ボタンを押そうとした瞬間、気遣わしげな声でそう言われて、動きが止まる。
何を言われたのか、よく意味がわからなかった。
「なにが、ですか?」
「とても……苦しんでいらっしゃるようですが……」
心底心配そうな声で、ためらいがちにそう言われた瞬間、何かの糸がぷつりと切れた。
ほんの少し出ているだけだった涙が、またとめどなくあふれてくる。
「……つらいんです」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどの鼻声だった。
せめてみっともない嗚咽は聞かせまいと、しゃくり上げそうになるのを必死にこらえる。
「じょうしと……うまく、いかなくて。かいしゃにいくのも、まいにちしんどくて……」
自分のものではないような声が、喉からかすれてはみだした。
名前も知らない人に、延々と愚痴を言い続けている。
そのおかしさに気づいていながらも、止めることはできなかった。
支離滅裂で文になっていないその泣き言を、その人は根気よくいつまでも聞いてくれる。
それが無性に嬉しくて、優しさにまた泣けてきた。
――どれだけ、時間が経っただろう。
散々言いたいだけ言って、少しだけ落ち着いた頃、携帯の向こうから優しい声が聞こえてきた。
「貴女は、よく頑張っている」
染み渡るような声音でそう言ったその人は、まるで私が目の前にいるかのように話しかける。
「もう充分、貴女は頑張っている。これ以上頑張る必要はない。――休んで、貴女自身を労ってあげなさい」
――ああ、私、頑張ってたんだ。
動きたくても動けなくなるくらい、頑張ってたんだ。
ようやく、今の自分の異常さを認められた。
起き上がる。歩く。
たったそれだけのことに気力を振り絞らなければならないなんて、もう異常としか言いようがない。
「できれば一度、医師に診てもらいなさい。抵抗があるかもしれないが――」
「……明日、会社を休んで行ってみます」
ためらいがちにされた提案に、一瞬迷ってうなずいた。
精神科に行くのは確かに抵抗があるけれど、そんなに怪しいものじゃないと友達から聞いている。
それに、この状況がどうにかなるなら、藁にもすがりたい心境だった。
相変わらず涙は流れ続けていたけれど、気持ちはずいぶん楽だ。
きっと、この人に話を聞いてもらえたから。
いつの間にかこの人は丁寧語が抜けていたけれど、それすら嫌だとは思わなかった。
「ちょっと、待っていてくれないか」
不意にそう言ったきり、声が急に聞こえなくなった。
ずいぶん遠くで何やら話し声が聞こえた後、再び「すまない」と戻ってくる。
「腕のいい精神科医を知っている奴がいたから、いくつか紹介してもらった。……メモはとれるか?」
「……ごめんなさい」
起き上がるのもつらい。
「では、場所と病院名だけ言っておくから。印象に残ったところを、調べて行ってみなさい」
「はい……」
それからその人は、いくつかの病院の名前と最寄り駅をゆっくりと教えてくれて、どこか都合のいい場所はあったかと訊いてくれた。
日本全国のクリニックがあったけれど、一番近いのは上野だ。
それを告げると、もう一度病院名を教えてくれる。
「メモが無理なら、携帯に残しておくだけでもいいから。忘れてしまったら、この番号にかけなさい。上野からのルートを教えよう」
「ありがと、ございます……」
泣きながらお礼を言うと、電話の向こうで困ったように笑う気配がした。
「さっきから泣き続けているな、貴女は」
「すいません……」
自分でもどうして涙が止まらないのか、ようわからない。
鼻をすすりながら謝って電話を切ると、そのまま静かに目を閉じる。
着替えもせずに化粧を落としただけだけど、もういいや。
明日は上司に欠勤の電話をして、上野のクリニックに行ってみよう。
きっと、それだけの価値はあるはずだから。
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