勇気を出して足を踏み入れたクリニックは、意外にもくつろげそうな空間が広がっていた。
ゆったりとしたソファーを勧められて待っていると、そう待たずに案内される。
呼びに来る人も看護師さんという感じではなく、誰かの家にお邪魔したかのようだ。
「突然お願いしちゃって、本当にすみません……」
「いいえ、気になさらないでください。それよりも、よくおいでくださいました」
ここまで来るのは大変だったでしょうと温かい笑顔で言われ、緊張が一気にほぐれた。
40近くに見える男の先生は、小さなテーブルを挟んだ椅子に腰掛けて、身体を私の正面に向ける。
「ボードだけ、すみませんね。私、物覚えがよくないんです」
照れたように笑った先生が、ボードを軽く振ってみせた。
そこに挟んであるのは縦に線が1本引かれただけの単なるレポート用紙のように見えて、ますます病院らしくないと感じる。
「ええと……ああ、カミュさんのお知り合いですね。今日はどうされました?」
「あの――」
どう、したんだろう。
風邪を引いたわけではない。
どこか怪我をしたわけでもない。
どうしたと、ぼんやりした言い方で訊かれると、ものすごく答えにくい。
仕方がないので、思いついたことから羅列していった。
「会社がつらいんです。いきなり異動を言われるし、上司と合わないし……」
そこまで言った瞬間、ぼろりと涙があふれてきた。
最近は、会社のことを考えるだけで、必ずこうなってしまう。
何故、と考える余裕もなく、そのままつらつらと思ったことを並べ立てていく。
先生はその間、一度も私を否定することなく、あいづちを打ちながらずっと聞いてくれていた。
ベッドから起き上がれない、歩けない、食べるのもしんどい。
刃物を見ると、刺したら痛いだろうかとぼんやり考える。
もういや、もういや、辞めたいけど辞められない。
いや、いや、いや、いや、いや――。
何を言っても否定されない。
それに無性に安心して、泣きじゃくりながら訴えた。
最後の方は多分、言葉にすらなっていなかっただろう。
ひとしきり話し尽くして泣いていると、先生が静かに滑らせていたペンの音が止んだ。
「――つらかったですね。一生懸命なじもうとして、精一杯頑張ったんですね」
にじむような優しい声でそう言って、先生は静かにうなずいた。
「貴女は充分頑張った。今必要なのは頑張ることではなく、ゆっくりと自分を労ってあげることです」
それから先生は鬱病のことを丁寧に教えてくれて、会社に提出する診断書と処方箋を手渡す。
「無理をしてはいけませんよ。大事なのは完治させること、ちょっと無理をするとまたぶり返しますからね」
こいつはたちの悪い風邪みたいなものなんですよと、先生が笑った。
「社内の厚生窓口に提出すれば、病気休暇を取れるでしょう。社内問題が原因のようですので、そちらも併せて書いておきました」
「ありがとうございます……」
「今はよく効くお薬もありますからね、心配いりませんよ」
またいらっしゃいと見送られて、クリニックを出ながら小さく息をついた。
――来てよかったと、そう思える。
薬で治ると言われて、ちゃんとした病気なのだと実感できた。
一緒に治していきましょうねと微笑んでくれた先生と、お大事にと頭を下げて笑ってくれた受付の人の笑顔が思い浮かぶ。
気長に付き合うことが大切だと言われたから、焦らないことにしよう。
夜はデパ地下で買っておいたお惣菜を、無理矢理お腹に詰めこむ。
薬は必ず、何か食べてからにしてくれと言われていたから。
食欲は全然ないけれど、吐きそうになるのをこらえて飲みこんだ。
薬を飲んで横になっていると、携帯が着信を告げる。
上司から電話だろうか。
そう思いつつボタンを押して、思わず息がつまった。
「――こんばんは」
――そこから聞こえてきたのは、昨日のあの人の声だった。
どうして、と混乱したのが伝わったように苦笑したような声が聞こえる。
「昨日、あれからやはり気になって。具合はどうだ?」
「あ、んまり――。でも、病院には、行きました」
慌ててそう答えると、その人は安心したようだった。
軽い吐息が聞こえて、それから我に返ったように笑みを含んだ声がする。
「そう言えば、名乗ってもいなかったな。私はサガ。サガという」
サガ、さん。
どういう字を書くんだろうか。
佐賀だろうか。
それとも、嵯峨?
個人的には嵯峨が好きだから、こちらで呼ぶことにしよう。
「嵯峨さん、ですね。私はです」
昨日はありがとうございましたとお礼を言うと、途端に涙が出てきてしまった。
あんなに親身になって話を聞いてくれたのは、多分嵯峨さんが初めてだ。
あの時のことを思い出したら、もう涙腺が止まらなくなったのだ。
「ありっ……ありがと……ご……っ!!」
言葉にすらなっていないお礼を繰り返していると、嵯峨さんがうろたえたような声をあげた。
「……お礼を言われるようなことは――」
していないと言いたかったんだろう嵯峨さんに、激しくかぶりを振る。
向こうに見えるはずはないのだけれど、そうせずにはいられなかった。
「私……っ、昨日嵯峨さんとお話していなかったら――きっと、もう駄目だった!」
病院に行くという選択肢すら思いつかず、自分が病気なのだとすら考えつかず、さらに酷い状態になっていただろう。
薬が効いてきたのか、さっきよりもはっきりとしてきた頭でそう思う。
「嵯峨さんとお話できたから、私、こうしていられるんです」
鼻声で、それでもしっかりと伝えると、ややして機械越しに穏やかな声が聞こえた。
「――それが貴女の役にたてたなら、私は嬉しい」
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