会社に連絡をしたら、手続きのために一度来いと言われた。
午後出社でもいいと言われたので、無理のない時間を設定してもらう。
動くのもつらいけれど、行かないと休職できない。
重い体を引きずるようにして出かけると、数枚の書類を渡すだけの簡単な手続きで終わった。
あんなに必死に頑張ってきた私の時間は、こんな10分足らずのもので終わるものだったのか。
どうしようもなくむなしくなって、会社のトイレでこっそり泣いた。
私は会社の歯車の一つにすぎないと、そうわかってはいたけれど。
けれど、もう少し、誠意ある対応をしてほしかった。
そう思うのは、私の贅沢なのだろうか。
やっとの思いで家に帰ると、化粧を落とす気力もなく床に座りこむ。
休職中は給料が払われる。
だから、無理に働き口を探さなくても大丈夫。
けれど、もし規定の期間内に治らなければ――?
鬱なんかになってしまった自分が情けない。
世間にはもっと、大変な思いをしている人がたくさんいるはずなのに。
どうしてこれくらいのことで、病気になんかなってしまうんだろう。
何もする気が起きなくて、そのままどれくらいの時間が過ぎただろう。
不意に携帯が鳴った。
会社に関しては、代表電話以外は着信拒否にしてある。
それは先方にも伝えてあるし、必要な時以外は連絡することはないと聞いている。
友人も電話をよこすような人なんてまずいないし、だとすると――。
放り投げたバッグからはみ出していた携帯を、のろのろと手を伸ばして取る。
開いたディスプレイには、「嵯峨さん」。
気力がほんの少しだけ戻ってきた気がした。
「……はい」
「私だ。今、大丈夫か?」
気遣いにあふれた、優しい声。
たったそれだけで、空っぽだった身体に、気力がたまっていく。
「動く気力はあるか?」
「……ちょっとだけ」
「焦らなくていい。だから、食事だけはしなさい。今、私と話しながらでいいから」
「はい……」
返事はしたものの、何も作る気力がないから、ご飯をレンジにかける。
お茶漬けの元を開けて、お湯をかけて。
もそもそと食べながら、嵯峨さんの声を聞く。
「気分はどうだ?」
「あんまり……よくないです。会社でちょっと、落ちこんで……」
あの事務的な手続きを思い出して、また目が熱くなってきた。
「私……何だったんでしょう」
換えなんていくらでもいる、サラリーマンなんてそんなものだ。
それでも、私だからと頼まれた仕事だってあった。
その言葉すら嘘だったのだと、私はどうでもいい存在だったのだと、思い知らされる。
「私、思い上がっていたんですね」
誰にでもできるような仕事に舞い上がって、自分にしかできないと思いこんで。
あげくの果てに、やり通すことすらできずに。
――情けない。
「――その人にしかできない仕事など、そうそうあるものではない」
嗚咽を噛み殺して話すと、嵯峨さんが何かを考えるようにしながら、途切れ途切れにそう言った。
「仕事など、種類が限られているだろう?9割以上が誰にでもできるものに決まっている」
それは、そうだけれど――。
「そんな中、さんには許容オーバーになるまで、仕事を任された。それは誇っていいことだと……私は思う」
もちろん、部下の健康状態や限界を見抜けなかった上司は、無能としか言い様がないが。
苦々しい口調でそう付け加えた嵯峨さんは、また優しい声になって言葉を続ける。
「貴女は、偉い。誰が貴女をそしろうと、私はそう言い続ける」
「……ありが、……ございます……っ」
なんて温かい言葉だろう。
なんて救われる言葉だろう。
必死に言葉を紡ぐと、嵯峨さんが困ったような声を出した。
「……あまり、思いつめないようにしてくれ」
貴女は自分を追いつめすぎる。
心配だと言わんばかりに叱られて、思わず小さく首をすくめる。
その言葉の裏に思いやりがあるとわかるから、落ちこむことはなかった。
嵯峨さんの他愛のない言葉を聞きながら少しふやけたお茶漬けを黙々と食べていると、不意に携帯の向こうの声が途切れる。
すぐに声も遠くなって、何やら誰かと会話をしているようだ。
「――すまない、急用ができてしまった。また今度」
「はい。……本当に、ありがとうございました」
また、があるかどうかなんてわからない。
素直にあると信じるには、疲れすぎてしまった。
それでも、嵯峨さんのことは信じたいと、ぼんやりそう思った。
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