一雨きそうだねとジーンが呟いた2時間後、しとしとと糸のような雨が降り出した。
「うわあ……濡れちゃった」
「傘、持って来ればよかったね」
水滴どころかしっとりと濡れてしまった肩に顔をしかめると、同じように濡れたジーンも苦笑する。
ハンカチで頭を拭いても、すぐに使い物にならなくなってしまった。
むう、と口をとがらせた私に、ジーンが小さく笑う。
「。いいじゃない、すぐに乾くよ」
「そうかなあ……」
すぐに乾く、というには、いささか濡れすぎた気がするけれど。
「たまにはこういう、のんびりした時間もいいね」
「うーん……そんなものかなあ」
私はあまりそうは思わないけれど、ジーンが本当に楽しそうに言うから、そんな考え方もあるのかと思うことにした。
ジーンの価値観は私と違うところも多いけれど、話しているとその分新しい発見があって楽しい。
こういうのって疲れるかと思っていたけれど、そうでもないのは、やっぱりジーンだからだろうか。
「は雨の日、いつも何してた?」
「え?うーん……本読んだり、ピアノ弾いたり、テレビ見たりかな」
「あれ?ピアノ、まだ弾いてたんだ。あるのは知ってたけど」
意外そうな顔をしたジーンに、そういえば彼がうちに来てからは弾いてないなと思い出した。
毎日が目まぐるしくて楽しくて、そんなことすっかり忘れていたから。
「もう、習ってはないしね。趣味で弾く程度だよ」
「そうなの?今度聴いてみたいなあ」
何が弾けるの?と訊かれて、何が弾けるだろうと考えてしまった。
ええと、エリーゼはまだ弾ける気がする。
モーツァルトのトルコ行進曲も、多分なんとか弾けるかな?
いやいや、中間部で指が滑る気がする。
……それを言ったら、どの曲もそうか。
「あんまり弾けない気がする……」
「ブランクがあるもんね。でも、のピアノは、にしか弾けないでしょ?」
「え?」
どういうことかと首を傾げたら、ジーンはとても大事なものを打ち明けるように笑った。
「歌でも、絵でも、演奏でも。料理だってそうでしょ?みんな自分だけにしかない味を持ってる」
「……そうだね」
「下手だっていいんだよ、だっての音だもの」
がどんな演奏をするのか、僕は聴いてみたい。
ぎゅうと抱きしめながらそう言われて、少しだけ顔が熱くなる。
他に雨宿りしている人がいなくて、本当によかった。
しとしとと降る雨は周りの音を吸い込んで、道を歩く人のいない空間はとても静かだ。
「……ジーンはピアノ、弾ける?」
「僕?やったことないなあ」
いっつもナルと一緒にいたからと笑うジーンは、とても幸せそうな顔をしていた。
きっと、弟君のことを思い出しているんだろう。
少し遠い目をしている時のジーンは、大抵そうだ。
「そうなんだ。指、細くて長いのにね」
「そうでもないよ」
「そうだよ」
下手をすると私よりも白いかもしれない手をとって、しげしげと眺める。
節くれ立っていない指らすらりと長くて、どうやったらこんな風な指になれるんだろうとうらやましくなった。
長い間ピアノをやっていた私の指は、関節が太くなってしまっているから。
それでもピアノをやっていたからこそ、今こうやって楽譜もよく読めるのだから、後悔はしていない。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
待てよ、そうしたら、ジーンがピアノをやっているのはおかしいか。
やってたら、もっと関節が目立つはずだもんね。
指が細くて長いのは バイオリンだったかな?
ジーンがバイオリンを弾いている姿を想像して。
「……格好いい……!!」
「?」
「ジーン、バイオリンが似合いそうだなあって」
どうしたの?と肩を叩いたジーンに笑って、もう一度想像してみる。
「うん、やっぱり似合いそう。タキシードとか燕尾服とか、きっとものすごく格好いいんだろうね」
「ああ、うん、まどかは大喜びしてた」
この年で、もう着たことがあるのか。
大学の卒業式か何かだろうか。
「ルエラと一緒に写真を撮りまくってさ、ナルなんか不機嫌になって大変だったよ」
「あー……うん、ナル君ならそうなりそう」
ジーンは疲れてても愛想よく付き合いそうだけれど、弟君は絶対そんなタイプじゃないもんなあ。
きっと、家族総出でなだめすかしたんだろう。
「大丈夫だった?」
「大好物をちらつかせたら、割とあっさり機嫌直したよ」
子供みたいな反応に、思わず吹き出してしまう。
何だか、弟君に対する印象が変わってしまいそうだ。
意外と可愛いところがある弟君にちょっぴり親近感を持って、ジーンの腕をくいと引っ張る。
「雨。小雨になってきたね」
「走って帰っちゃう?」
悪戯っぽく提案したジーンに笑顔でうなずいて、しっかりと手をつないだ。
「いち、にの 」
思いっきり走って、さっきよりも緩やかに濡れる肩も楽しくて。
笑いながら走っていたら、息が切れてしまった。
「ジー、ジーン、速い!」
「もうちょっと!頑張れ頑張れ」
「あはははは……っ、何か気持ちいい!」
靴も服も濡れてしまったけれど、人目を気にせずにこうやって走るのはいつぶりだろう。
体育以外でこんなに走ったことも、ほとんどなかった気がする。
「帰ったらっ、シャワー浴びなきゃ、ね!!」
「そうだね!風邪、ひいちゃいそう!」
ものすごい速さで横を通り抜けて行くバスを横目に、家までずっと走って帰った。
出迎えてくれたお母さんに呆れて怒られたけれど、それはあんまり気にならなかった。
以前は憂鬱なだけだった雨の日が、ちょっとだけ好きになれそうな気がする。
ジーンにそう話すと、好きなものがまた増えたねと微笑まれた。
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