まずい。
非常にまずい。

何がまずいって、受験勉強が予想以上に大変なのだ。


「日本史が嫌いになりそう……」


用語集をぱたりと置いてうめくと、横で英語の問題を作っていたジーンが眉を下げた。


「日本史ばっかりは、僕にも教えられないからなあ……」
「うん、ジーンは日本史やってないもんね……」


イギリス育ちのジーンが日本史まで完璧だったら、それこそ私の立つ瀬がない。
だから、それはいいんだけれど……。


「モチベーションがあがらないよう……」


周りのみんなは、まだ高校生活をエンジョイしきっていた。
そんな中で一人受験勉強をするのは、やっぱりつらいものがある。


はもう充分、頑張ってるもんね。頑張れなんて言えないか」


苦笑したジーンの手が、私の頭に乗った。
柔らかくなでてくれる手が気持ちいい。


「でもね、これだけは言えるよ。無駄な勉強なんて、本当に何もないんだ」


英語も国語も数学も、物理化学でさえ。


「必ず、何らかの形で、の実になってるから」
「私の……?」
「そう。嫌な科目があるのは当然だよ、向き不向きがあるから」


でも、できるだけ投げ出さないで。
社会に出てから勉強の大切さを知ったと苦笑するジーンは、やっぱり近くて遠く感じる。

……同い年なのに、もう社会人なんだなあ。
お仕事をしている様子はないけれど、学校で守ってもらえないって、どんな気分なんだろう。


「ジーンも苦手な科目、あったの?」
「僕?うーん……」


天井を向いてしばらく考えていたジーンは、困ったように苦笑した。


「……あんまり、覚えてない……かな。いろいろあったはずなんだけど……」
「そんなに苦手なものがなかったんじゃない?」
「あったあった」


うそつき、と半眼で見ると、ジーンが慌てたようにぱたぱたと手を振る。
ひどく慌ててるから、多分本当なんだろう。


「あんまり興味がないものが多くてね……。それなりに切り抜けられればいいやって思ってたから、そんなに必死じゃなかったんだよ」
「せっかく、大学に行ってたのに?」
「そう言われるとつらいなあ……」


もちろん真面目にやってはいたよと、ジーンが苦笑した。


「海外の大学は、日本よりもずっと卒業するのが難しいんだ。ちゃんと講義を自分の知識にして、試験で十二分に出さないと合格できないからね」


不真面目な態度では、留年を続けるだけ。
それで退学を余儀なくされる学生もいるのだと、何でもないことのように言う。

現実の厳しさに、背筋が冷えた。


「……すごいんだね、みんな」
「まあ、僕のしたいことは、大学ではできないことだったんだけど」


ナルがいたから大学にも行ったと言い切るジーンの表情には、本当に弟君が好きだと思いっきり書いてある。
それがとても微笑ましくて、日本史のことも忘れて笑った。
笑って、それじゃあジーンにとって大学って何だったんだろうと、ふと思う。


   ジーンは大学、楽しくなかったの?」


せっかく大学に行ったのに、おもしろくないままで卒業してしまったんだろうか。
もしそうなら、ちょっと寂しい。


そんな気持ちが伝わったんだろう。
ジーンが優しく笑って、私の頬をなでた。


「楽しかったよ。新しいことを覚えるのは好きだし、すごく刺激を受けるものばかりだったしね」


講義の内容について、よく友人と議論を戦わせたとジーンが笑う。

一回り近く年の離れた同級生に囲まれて、ジーンはきっと優秀だったんだろう。
それでも、したいことが勉強できないと、やっぱりつまらないんだろうか。


「僕の場合、したいことが特殊すぎてできなかったっていうのが正解なんだけど。は妥協しちゃいけないよ」
「……何に?」
「色々。大学もそうだし、専門もそう」


どっちも大事だよと真面目な顔で言ったジーンが、こつりと額を合わせてきた。




「有名大学だからって、どこの学部でもいいとか。これが学べるならどこでもいいとか。そういう風に決めると、後で必ず後悔するよ」




東京の大学ならどこでもいいなんて、そんなこと考えないでね。
そっとささやかれて、思わずどきりとした。


   東京ならどこでもいいって、ちょっと思っていたから。


「……ゆっくり、考えてみるね」
「うん。まだ2年あるし、焦らなくていいと思うよ」


私のやりたいこと、何だろう。

改めて考えてみると、難しい。
やりたいことは一応あるけれど、本当にやりたいのかと訊かれるとためらってしまう。


「ゆっくりね、


後で後悔しないように。


額に軽いキス。
おまじないのようなそれで、もやもやしていたものがすうっと消えていった気がした。

いつもこうやって、ジーンに励まされてばかりだ。


「……うん。ちゃんと自分のやりたいことができたって、納得できるようにするね」


第一志望には受からないかもしれない。
けれど、嫌々通うような大学じゃなくて、自分で納得できるようなところに行きたいと、そう思った。


「日本史、休憩!ジーン、英語やってもいい?」
「もちろん!はい、問題」


おしゃべりをして気も紛れたし、休憩代わりにもなった。
嫌気がさしていた日本史を脇に片付けて、ジーンが作ってくれたプリントの束をとんとんと揃える。


綺麗な筆記体は読むのが少し大変だけれど、読めないほどじゃない。
本当に流れるようなジーンの文字が、とても好きだ。


「制限時間は?」
「特にないよ。焦らないで、どこがわからないのか把握して」
「うん」


ジーンのプリントは、範囲は変わらない。
けれど解く度に、少しずつ解けない問題が増えていく。

私よりも私のことをよくわかってくれていると言ってくれているようで、少し恥ずかしくて、それ以上に嬉しかった。