ジーンに案内されて恐る恐る足を踏み入れたそこは、本当に普通の雑居ビルだった。
あえていうなら、噴水が綺麗だというくらい。
足取り軽く階段を上るジーンの後についてそろりとドアをくぐると、からんと懐かしい響きがした。


「いらっしゃ   ジーン!いらっしゃい、今日はさんも?」
「うん。、麻衣だよ」


お客さん向けの声から、一気に人懐こい声に。
聞き覚えのあるそれに顔を出すと、満面笑顔の麻衣ちゃんがいた。
思わずこちらの緊張もほぐれて、顔がゆるむ。


「座って座って!今お茶淹れるね、ジーンは紅茶でいい?さんは何がいいですか?」


何でも揃ってますよーと腕をまくる仕草をしてみせる彼女に微笑んで、麦茶を頼む。
コンクリートジャングルの中では、この時期でも結構な暑さだ。
ああ、ひんやりした林の中が恋しい……。


「ナルもいいって言ってくれてるし、今日からよろしくお願いしますね、さん!」
「え、今日からなの?」
「あれ?ジーンから聞いてないの?」


思わぬ言葉に首を傾げると、逆に麻衣ちゃんに首を傾げ返されてしまった。
さてはとジーンを見ると、悪戯がばれた子供のように笑っている。


「ジーン!!」
「だって、そう言ったら絶対しりごみして来なかっただろ?」
「う……それは、そうだけど……」


至極もっともなことを言われて、返す言葉につまってしまう。
確かに、いきなり今日からバイトだと言われたら、全身全霊で拒否していただろう。

だけど、ちょっと待て。


「……それって、あらかじめジーンが言っておいてくれればよかった問題じゃない?」
「…………まあ、それはそうと!」


……忘れてたのね、ジーン。
そうなんだね。

今、ものすごくよく伝わってきた。


「ナルは?リンもいるんだろう?」
「ナルはあそこの部屋にいるよー。リンさんは今、買い出し中」
「買い出し?」
「そ。本が必要になったとかで」


で、あたしはお留守番ー。


つまらなさそうに大袈裟に伸びをしてみせる麻衣ちゃんは、人懐こい猫のようだ。
仲良くやっていけそうな気がする。
ほっとしながら麦茶を飲むと、冷たさが喉から身体中にしみわたった。


「冷たいー……気持ちいいー」
「あはは、外は暑いもんね。さん、おかわりほしかったら言ってね!」


いつの間にか麻衣ちゃんの口調から敬語がとれていたけれど、ちっとも嫌な感じがしない。
うん、やっぱり仲良くやっていけそうだ。


後からジーンに、「麻衣は仲間には敬語を使わないんだよ」って聞いて、この時からもう仲間と認めてくれていたのかと驚いてしまったのは秘密だ。


麻衣ちゃんに向けて微笑んでみると、太陽のような笑顔が返ってきた。


「何か分からないことがあったら言ってね、今ナル呼んでくるから!」


そういって元気よく所長室(と思しきところ)に入っていく麻衣ちゃんを見送りながら、ジーンが柔らかい笑顔を浮かべる。


「どう?


やっていけそう?と言外に問われて、小さく笑ってうなずいた。
やっぱり、ジーンは私のことをよくわかってくれている。

弟君   もうこの呼び方もやめた方がいいのかな?   もリンさんも知り合いだし、多分やることといったら事務の仕事ぐらいだし。
麻衣ちゃんがあんなにいい子なら、後はもう大丈夫だ。


   来たか」
「やあ、ナル」
「お前まで来る必要はなかったはずだが」
が迷わないようにだよ。はまだ、こっちに来て日が浅いから」
「お前もそうだろうが」
「嫌だなあ、僕のフィールドワークの回数、忘れたの?」


うわあ、なんという温度差にあふれた会話。
向こうでの生活で、これが普通だとわかっているからまだいいものの……麻衣ちゃんなんか、「寒っ!」と両手で腕をこすっている。

その気持ち、痛いほどよくわかります……。
私もイギリスに行った当初は、そりゃあもう居心地が悪かった。


「ねえ、さん。今更あたしが言うのも何だけど、本当にここで平気?」
「うん。おと   ナル君の口調には、もうイギリスで慣れたから」


こそこそと不安げにささやいてくる麻衣ちゃんに微笑むと、ほっとしたように顔がほころぶ。
この人懐っこさ、どこか既視感を覚えると思ったら   少しだけ、ジーンに似ているんだ。
それに気づいた瞬間、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。


好きな人に似てるだけで警戒心を解くって、私どれだけなの……!


両手で顔を覆って小さくうめくと、麻衣ちゃんに心配されてしまった。


「どうしたの、さん!具合悪い?」
「あー、うー、うん、ちょっと自己嫌悪してただけ。大丈夫だよ」
「自己嫌悪?どうしてそんなことする必要があるのさ」


何で?何で?と純粋に訊いてくる麻衣ちゃんは、ある意味正しい。
この場面(一見温度差の激しい兄弟の会話)で、私が自己嫌悪に陥るポイントなんて、どこにもないのだから。

だからこそ、余計に言いにくい。
というか、誰にも言えない。


「まあ、大人の事情ってやつで!」
「それずるい!あたし達、一こしか違わないじゃんか!!」
「麻衣ちゃんでも言えないことは言えないのー!!」


きゃあきゃあとやっていたら、冷え冷えとした弟君   ナル君の声がそれをぶった切った。


「そろそろ、仕事内容の説明に移ってもよろしいですか?」
「イエッサー、ボス!!」
「ごめんなさい!」


瞬時にびしりと敬礼した麻衣ちゃんと一緒に、姿勢をぴんと伸ばす。
そうして告げられたのは電話の取り次ぎとお客さんの対応、それからSPRイギリス支部からの郵便物の仕分け。


「え!?さんにそこまでさせるの!?」
「来客対応は麻衣に訊いて覚えてくれ。   うちに泊まったぐらいだ、英語はできるだろう?」


何故か驚く麻衣ちゃんを無視して、ナル君がそれはそれは綺麗に笑う。
……悪魔の微笑ってこういうものをいうんですね、わかりました。