静かな、できれば煙草の煙のない場所でという私の希望によって(煙草の煙は無理。5秒吸うだけで気持ち悪くなる)、ヒカル君の家へと案内された。
懐かしそうに辺りを見回す佐為が印象的で、それだけ長い年月を彼と共に過ごしたんだろうとわかる。
「、この道を右に曲がると、ヒカルの中学校があるんですよ。ヒカルはそこで、囲碁の基礎を学んだんです」
(へえ。佐為が全部教えたのかと思ってた)
「私にできるのは、ヒカルを高みに押し上げるだけ。ヒカルはヒカル自身の力で、強くなっていきましたよ」
眩しげに目を細めた佐為に、塔矢プロと並んで先を行くヒカル君を見た。
まだ、高2と同じはずの年齢の彼は、とても大人びて見える。
それは塔矢プロに対しても言えることで、日々勝負の世界に身を置いているからなのだろうかと思ってしまった。
囲碁を始めてから数年でプロになったヒカル君は、一体自分のことをどう考えているのだろうか。
逆に、塔矢プロはヒカル君のことをどう思っているのだろうか。
仲良さげに話しながら歩く2人を見ながら、そんなことをぼんやりと考えた。
ほどなくして到着したヒカル君の家は本当に普通の一軒家で、少なくとも碁のプロが住んでいるようには見えない。
それでも、佐為は一段と懐かしそうに目を細めた。
「ああ、ヒカルの家です……」
「ヒカル君、佐為が懐かしがってるよ」
「そうか?……懐かしいのか、佐為」
あまりにも嬉しそうな佐為の様子に、塔矢プロのことも忘れて思わずヒカル君に伝えてしまう。
驚いたような表情の後に照れくさそうな顔になったヒカル君は、それをごまかすように「上がれよ」と乱暴にドアを示した。
家の中も、本当に普通の一般家庭。
けれどそれは、ヒカル君の部屋に入った時点で一変した。
部屋の片隅に詰まれた、『週刊碁』という雑誌。
何冊もの囲碁に関する本。
散らばった、棋譜と呼ばれる紙。
そして 部屋の中央に置かれた、碁盤と打ちかけの碁石。
「ヒカル !!」
「佐為の話を聞いて、もしかしたらって思ったんだ。……さん、こいつは佐為が消えた時に打っていた対局の途中だ」
大きく目を見開いて、扇子で口元をおおって。
泣き出しそうな、張り詰めた表情の佐為は見えていないだろうに、ヒカル君は真剣な表情で私を見る。
「打たないか、佐為。 あの時の続きを」
「進藤、それはどういう 」
「見てればわかる。お前なら、きっと少しはわかる」
話に割りこもうとした塔矢プロを一蹴し、ヒカル君は私を 佐為を真剣な表情で見すえる。
……ならば、私もそれに答えよう。
「ヒカル君、後でベッドを借りることになってもいい?」
「はあ?いや、別にいいけど……」
どうして今ここでそんなことを訊くのかと言いたげなヒカル君に微笑んで、私は覚悟を決めた。
今日はもう、一度言霊の力を使って無理をした。
これ以上どれくらい耐えられるのか、正直自信がない。
けれど、ここで応えなければ女がすたる。
「 佐為。入って」
「?しかし、それではあなたの身体が 」
「だから、後で休ませてもらうの。いいから入って、ヒカル君と対局を」
端から見たら私の独り言、けれどヒカル君だけは何となく事情を察したようだった。
「さん、あんた、佐為を !?」
「うん。やってみたらできた。ただ、その後ものっすごく疲れるんだけど」
「んな簡単に言うなよ……」
一気に脱力したヒカル君に笑って、何がなんだかわかっていない塔矢プロに目だけで謝罪する。
けれどきっと、これであなたも「佐為」に気づくはずだから 。
冷たい感覚が背中から入ってくる。
視界が二重にぶれる。
そして。
「『さあ、始めましょう。ヒカル』」
私ではなく、佐為が口を開いた。
人に身体の支配権を譲るというのは、何度体験しても不思議なものだ。
どこか布一枚隔てたような視界の中で、自由のきかない身体を持て余す。
塔矢プロはどんな顔をしてこの対局を見ているのだろうかと思っても、「私」の視界は碁盤とヒカル君しか映さない。
ぱちり、ぱちり。
私が打つよりもずっと綺麗な音が、碁盤に響く。
その合間に、ぽつりぽつりと2人の間で会話が交わされた。
「なあ、佐為。こうやってる間は、五感も戻るのか?」
「『ええ。碁石のひやりとした心地よい感触も、窓から吹き込む穏やかな風も』」
「俺、強くなったか?」
「『ええ とても。私の想像を遥かに超えていました』」
「…………この対局、ずいぶん待ったんだぞ」
「『何も告げずに消えてしまって、すみませんでした』」
「 お前に、もう一度会いたかったんだ」
「『……私も、あなたと別れたくなかった』」
ちょっと待て、どこの恋人同士の会話だと突っ込みたくなったのは置いておいて。
泣きそうな声で呟いたヒカル君に、佐為も兄のような優しい声で答える。
それは、師弟と言うにはあまりにも緊密で、けれど兄弟というのは少し違っていて。
ソウルメイトという言葉が、自然と思い浮かんだ。
どれくらい時間が経っただろう。
2人の静かな対局は、ヒカル君の穏やかな「負けました」という言葉で終わりを迎えた。
そして、「私」の視界が、塔矢プロへと向く。
「『初めましてと言うべきか、お久しぶりと言うべきか あなたも成長したのでしょうね、塔矢アキラ』」
「さ いや、あなたは 」
「『私は佐為。藤原佐為。平安の世に生き、碁への執着から魂のみで千年の時を過ごした、幽霊です』」
以前はヒカルと共にいたと告げた佐為に、塔矢プロが目を見開いた。
「それで、あの一局……」
「『ええ。あれは私が打った一局でしたから』」
微笑んで答えた佐為だけれど、申し訳ない。
「ごめ、もう限界…………」
急に口調と雰囲気の変わった私に、2人が慌てた様子になった。
多分、最初に佐為に身体を譲った時と同様、顔色は真っ青だろう。
慌てて出てきた佐為が、心底すまなそうにかがみこんで私を覗きこむ。
「すみませんすみません!久しぶりの対局に、つい時を忘れてしまったようです」
「いや、いいよ。 これで少しは、納得してもらえたでしょうか?」
座っているのもつらくてずるずると床にへばりつきながら、塔矢プロにむかって尋ねた。
慌ててうなずいた彼は、やっぱり慌ててベッドを整え始めたヒカル君に声を張り上げる。
「進藤、早くしろ!」
「わかってる!」
そんな2人の会話をどこか遠くで聞きながら、残る意識をかき集めて塔矢プロに微笑んだ。
「起きたら あなたにも、佐為と 」
触れ合ってほしい。
彼の姿を見てほしい。
そして、意識の暗転。
無理しすぎたな、私。
|