全商連を抜けるには、やはり少し手間がかかった。
引き継ぎはもちろん、州城からの干渉、柴彰様の妨害。
色々手こずったけれど、最後は逃げるように引き継ぎ書を置き去りにして抜け出した。
最後のお給料をもらい損ねたけれど、自由に比べれば大したことはない。
「さて……どこに行こうかしら」
呟いた視界の先に広がるのは、やはり荒涼とした大地。
目についたところから始めていこうと、結局は農作物の普及に努めることにした。
枯れた土地に水分を保たせる方法。
土壌の改良方法。
乾燥に強い植物の栽培方法。
行く先々でそんなことを教え、お礼にと食料や金子をもらいながら、あちこちをふらふらとする。
そんな生活が数ヶ月続いただろうか。
州都から遠く離れたその村で、私は彼に出会った。
両膝から下がないその青年は、大きな狼に乗っていた。
彼は浪叔斉と名乗り、狼は銀次郎だと紹介した。
両脚がないというハンデを微塵も感じさせず、彼は良き官吏として日々働いている。
穏やかな話しぶりに惹かれ、数週間を彼と過ごした。
「あなたはどうして、官吏に?」
「弟との、約束だったんだよ」
一緒にこの国をよくしようと。
笑顔で語り合った日があったという。
彼は本当に愛しそうに家族の話をするけれど、その全てが過去形であることに違和感を覚えた。
それを追求することはなかったけれど。
「この村はもう大丈夫だ。銀次郎、次の村に行こう」
「ご一緒します」
「助かるよ。君がいてくれるおかげで、村が豊かになる」
「いえ……私には、これしかありませんから」
一緒に街道を歩きながら、自然とうつむきがちになる。
『普通』を追い求めるばかりに、いつの間にか私はその『普通』の領域を超えてしまったのだろうか。
私はただ、前の人生でついぞ経験することができなかった、他の人々と同じような生き方をしたかっただけなのに。
落ちこみながらかぶりを振ると、叔斉はゆっくりと私の頭をなでた。
温かい、人のぬくもり。
「芳明、君は様々なことができる。その知識を持っている。そしてそれを、惜しむことなく人々に教えているじゃないか」
「だって、私にはそれしかできませんから……。『普通』の幸せを追い求めてここまで来たけれど、結局わからないままです」
うつむきながら愚痴をこぼすと、頭上で苦笑する気配がした。
思わず顔を上げると、そこには仕方がないといった様子の叔斉。
「……君を見ていると、なんだか妹がもう一人増えたようだよ」
「――え?」
「一番下の弟と、少しだけ似ている。芳明、君の空気が」
まあ、君の場合は、天つ才とも言えるかもしれないけれど。
寂しそうに付け加えられた最後の言葉に、小さくかぶりを振った。
私は天つ才ではない。
それは私自身が一番よく知っている。
ただ、知識を受け入れる下地が出来上がっていただけのこと。
「私は――ただ、普通の生活をしてみたいだけなんです」
ぽつりと呟くと、叔斉は愛おしそうに目を細めた。
「芳明。普通とは何か、考えたことがあるかい?」
「衣食住が足りて、したいと思ったときにいつでも学ぶことができること」
「あちら」の世界での常識を答えると、叔斉が静かにかぶりを振る。
「ひとつ余計で、ひとつ足りない」
「……え?」
何だろう。何が足りないんだろう。
余計なものはすぐにわかる。
この世界で暮らしていれば、嫌でもわかる。
勉強なんて、したくてもできないことが日常茶飯事だ。
では、足りないものは――?
ぐるぐると思考を巡らせていると、両頬がゆっくりと大きな手に包まれた。
「家族だ」
「かぞく……?」
「嬉しいことも悲しいことも、一緒に分かち合える家族だ。――芳明、君に家族は?」
訊かれて、かぶりを振る。
私の家族はあの日、完全に他人になった。
だから本当は、漣という名字を名乗ることさえ許されないのかもしれない。
その仕草は、叔斉の目にどのように映ったのだろうか。
彼はしばし考えて、柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、芳明。私の妹にならないかい?」
「え?」
「形だけでも、名字があった方がいいだろう。私の氏でよければ使ってほしい」
それはつまり、浪という名字を新しくくれるということだろうか。
私に「家族」を与えてくれようとしているのだろうか。
「兄さん……」
言い慣れない言葉を唇に乗せると、叔斉は泣きそうに微笑んだ。
「私を本当の兄と思ってくれるなら、そう呼んでおくれ。何をするにも氏は必要だからと、そう思ったのだけれど」
後から考えると、叔斉自身も家族に飢えていたんだろう。
色々な人から話を聞いてそれがわかったけれど、私はこの世界で初めて手に入れた「普通」の欠片に胸がいっぱいで気づかなかった。
「兄さ――兄様、の方がいいですか?」
「どちらでもいいよ。芳明、君の望むままに」
「では……兄さん」
照れを込めながら呼んでみると、穏やかな笑顔が返ってくる。
これが、家族。
これが、普通のひとかけら。
知らずこみ上げた感情は、ぱたりとひとつ、地面にしみを作った。
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