あれからしばらくして、叔斉兄さんと別れることにした。
寂しくないと言ったら嘘になるけれど、普通の幸せを探すのは、この村では無理な気がする。
そう告げると兄さんは少しだけ寂しそうな顔をして、それでも微笑んで「いってらっしゃい」と言ってくれた。

いってらっしゃい。
その言葉を言われるのは、生まれて初めてで。
くすぐったさに微笑んで、村を後にした。


「どこに行こう……」


普通の欠片は手に入れることができた。
けれど兄さんは、仮初めの家族では、本当の幸せはつかみとれないだろうとも言っていた。
ならば、結婚して自分だけの家族を作り上げるしかない。
……なんて難しい命題だろうか。

国境近くの村に滞在しながら、擦り切れてぼろぼろになった地図を広げる。


   この先は黄州か」


まだ行ったことのない場所。
環境に慣れるまでは、難しいことを考えている暇もないだろう。
よし、と地図を畳んで、外から呼ぶ声に返事を返した。








「芳明、これの帳簿も頼むわね」
「はい、奥様」


奥様に頼まれた帳簿を、端から端まで調べていく。
時々ある記載の間違いは、その時々に残されている記録から正しい数字に直していった。

全商連でしごかれたおかげで、数字に関しては滅法強くなっている。
少しでも間違えればねちねちと嫌みを言われたから、自然と注意を払う癖がついていた。


「あ、ここも違う」


小さく呟いて修正をしているうちに、お客様に手元を覗かれているのに気づく。
どうやら処理の速度が速いらしく、驚きの目で見られるのももう慣れた。
仕事に最も効率がいいのがここなのだから、見世物になるのも仕方がないと割り切っている。


「うちの子、仕事が早いでしょう?つい最近入ったばかりなんですよ」


奥様が自慢げに話している。
お客様も興味深げに話を聞いていて、時々相づちを打っていた。
奥様に二言三言耳打ちをしては、奥様が「滅相もない!」やら「いえいえ、そういうわけには」などと答える。
そんな会話が続いているようだ。


「芳明、これも頼む」
「はい」


手渡された帳簿は、今日きたばかりのもの。
これならば、何も見なくても処理できる。


「それが終わったら、休憩に入っていいぞ」
「わかりました」


30分ほどで片づくだろう。
そう踏んで、ひたすら暗算とそろばんで数字を確かめていく。


「芳明、終わったらちょっとこっちに来てくれる?話があるから」
「はい、奥様」


一体何だろう。
お叱りを受けるようなことはしていないから、今度の休暇のことだろうか。
入ったばかりの私がいただくのは、やはり公平ではないだろう。

辞退する心づもりで奥様のところへ行くと、何やら難しい顔をして奥に連れていかれた。
そこにいたのは、先程のお客様。


「あのね、芳明」
「はい」


奥様が言いにくそうに言葉を濁らせる。
ちらちらとお客様の方を気にしているところを見ると、どうやらあちらに関係があるようだ。


「その   ね」
「はい」


気づいていないだけで、何か粗相をしたのだろうか。
不安になって眉根を寄せると、お客様の方が柔らかい笑顔で口を開いた。


「貴女の事務処理能力、拝見しました。実に素晴らしい」


どこで身につけたのかと問われて、全商連でと正直に答える。


「あそこでは、私程度の人材など山ほどおります。むしろ、この程度のことができなければ、必要ないとみなされて首を切られていました」


だからこそ、私も必死で仕事を覚えた。
超実力社会の全商連では、年齢も性別も関係ない。
絶対的に女性が少なかったけれど、皆無というわけでもなかった。
そして、彼女達はみんな、男に蹴落とされないように必死で食らいついていたのだ。

生意気だと、言われなかったわけではない。
女のくせにと、蔑まれたこともある。

それでもあそこで頑張れたのは、学ぶところが多かったから。


「なるほど……ますますほしくなりました」


   何を?


「そのね、芳明。この方が、お前を引き抜きたいって……」
「……え?」


気ぜわしくこちらとお客様を交互に見る奥様。
行かないでくれと、その目が必死に訴えていた。
それでも私に伝えてくれたのは、機会は公平にあるべきだと思ったからか。


「私共の店に来てくださるなら、少なくともここの倍以上の収入を保証しましょう。悪い条件ではないと思うのですが……」


お客様の言う通り、これは破格の申し出だ。

今の待遇も、けして悪いわけではない。
むしろ、中流の店にしてはいい方だ。
その倍の報酬を出すなんて、一体どんなに大きなお店なんだろうか。

心配そうにこちらを見つめる奥様と、にこやかに見ているお客様と。
双方をしばらく見つめて、静かに結論を出した。


   私はまだ、ここでお世話になり始めたばかりです」
「承知の上です」
「雇ってくださった恩を忘れて、そうそう簡単にお話をお受けするわけにはいきません」


奥様の顔が明るくなった。


「芳明、それじゃあ   
「まだしばらくは、ここでお世話になりたいと思います」