どうやら、客人は簡単には引き下がらない人だったらしい。
あれからも頻繁にお店に来ては、何をするでもなくじっと私の仕事ぶりを眺めている。
居心地が悪いのを我慢しているのは、帰り際に必ずかなりの上物を買っていただけるから。

お店の売り上げにも貢献しているから、ご主人も奥様も強くは出られないようだ。
困った顔で客人をちらりと見ては、すがるように私をうかがうばかり。
私にどうにかしてくれと言わんばかりの視線を向けられても、こちらも困っているのだ。


「……あの……毎日来ていただいても、何もできませんけど……」


おそるおそる申告しても、客人は笑っているばかり。
柳に風、暖簾に腕押しの状態に、諦めて小さくため息をついた。




そうして通われて、幾月か経った頃だろうか。
奥様に呼ばれて奥の部屋に行くと、神妙な顔をした夫妻が座っていた。


「芳明、そこにお座り」


旦那様に促されて入り口の一番近くに座ると、辛そうな表情の奥様が口を開く。


「ねえ、芳明……。もう私達に義理立てしなくてもいいんだよ」
「……え?」


何を言われているのか理解する前に、旦那様が後を継ぐ。


「お前はもう、充分うちの店に尽くしてくれた。お前が来てから帳簿の誤記がなくなったし、不自然に荷が消えることもなくなった。それに芳明、お前はその才を他の者に惜しみなく教えてくれただろう?」


だから。


「あの方々と共に行きなさい。私達よりもずっと、お前の能力に見合った報酬をくれるはずだ」


一瞬、もう私は要らない人間になったのかと思った。
けれど、旦那様も奥様も辛そうな顔をしている。
   まだ人を信頼しきれていない自分に、嫌気がさした。


「……私は、今いただいているお給金で、充分満足しています」
「それでもね、芳明。あなたは、この店にはもったいないのよ」
「お前なら、もっと大きな店の方が力を発揮できるだろう。お前のおかげで、うちの取引先もずいぶん増えた。……うちでずっとくさっているより、お前のためになる道を選んでほしいんだ」


私の、ため?
何をもって「私のため」と言われているのか、全くわからなかった。

私は今の居場所が心地よい。
お店の人々もみんな親切だし、時にはこっそりと甘味をお土産に渡してくれる人もいた。
お給金だって、そもそもが物々交換だった私には、有り余るほどの額なのだ。
家賃を払って、食費の分を差し引けば、残りは全て貯蓄にできる。

そんな私の「ためになる道」とは、一体何なのか。
そこまで考えて、ふと別の可能性を思いついた。


もしかしたら、旦那様方は、あの客人に圧力をかけられているのかもしれない。


あちらの方が格上なのは、旦那様や奥様の様子を見ていれば明らかだ。
圧力をかけられているとすれば、これ以上ここでお世話になるのは迷惑でしかない。
下唇に歯をたてると、僅かに血の味がした。


「……少し。少しだけ、時間をいただけますか」


私の仕事は、完全に引き継げたわけではない。
ほんの片手間程度に伝えてあるだけだ。
もしもこの店からお暇しなければならないのだとしたら、もっと本格的に伝えなければ。
ようやく手に入れた安住の地は、所詮仮初めでしかなかった。