我が家の畑が充実し、私の腕もそれなりになってきた頃。
皮肉にも、時は訪れた。
この小さな手で、一体どれほどの人が救えるのか。
何度も何度も自らにかけた問い。
自己満足かもしれない、けれどやらないわけにはいかなかった。
もうけして、家族を喪って悲しむ人を作りたくなかったから。
「頑張ろう……」
頑張ろう。頑張ろう。頑張ろう。
紅先生の奥方は、もうとうに亡くなってしまった。
物語の中だけではなく、本当に輝いていたあのお方。
まみえたのはただ一度きりだったけれど、今でも鮮明に覚えている。
「薔薇姫様、どうかこの愚かな子供の願いにご助力ください」
精神は子供とは言えないけれど、この国で過ごした年月は確かに子供のそれ。
ただでさえ世間知らずな自分が歯がゆかった。
刻一刻と貴陽の状態は悪くなってきている。
こっそりと紅先生のところを訪ねる度に、道端にうずくまる人の数が多くなっている気がした。
秀麗は奔走を始めているだろうか、静蘭はもう朝廷を休みがちになっているだろうか。
「負けてられないのよ」
あんなに小さな少女でさえ、できることをやろうと歩き出している。
もう一度チャンスを与えられた私が、踏み止どまるわけにはいかなかった。
「 あの、綺麗な庭を裸にはさせない」
貴陽の人々に、少しでも食料を。
誰もがまだ眠っているこの時間、それが私の行動時間。
貴陽に行っても、誰も私を気にかけないから。
そうっと裏の木戸をくぐると、いつものように紅先生が微笑んで立っていた。
「おはよう、芳明」
「おはようございます、先生。いつものものをお持ちしました」
泥がついたままの、山ほどの野菜。
そして、漬けて保存食にした野菜。
色々なものがないここでは四苦八苦しているけれど、最近では何を使えばうまくできるかがわかってきた。
「いつもありがとう。おかげで助かっているよ」
「いえ、私にはこれくらいのことしかできませんから……」
誰も起きてこないだろうか。
静蘭は人の気配に聡いから、いつ出てくるか毎回不安だ。
そんな私の心に気づいたのか、紅先生がそっと私の頭をなでた。
「……先生?」
「大丈夫、まだ静蘭も秀麗も起きてこないよ。静蘭が起きるのも、いつももうちょっと遅いからね」
……驚いた。
確かに紅先生の感覚を信じてはいたけれど、黒狼だなんて信じていなかったから。
こんなのんびりした人が黒狼だなんて、一体どうして信じられる?
「ありがとうございます、先生」
紅先生の大きな手が好き。
誰かにこうして触れてもらったのは、もう遠い記憶になってしまったから。
何のためらいもなく可愛がってもらえることの大切さを、この紅先生に会って初めて知った。
「芳明、やっぱりうちに来ないかい?山奥で一人でいるより、大勢で暮らした方がきっと楽しいよ」
こんな私に何度もそう言ってもらえて、本当に嬉しい。
だけど、ここでは貴陽の人々に渡す野菜が思うように作れない。
「……すいません、先生。私、山がいいんです」
「……そうかい?」
私の言葉に残念そうに眉を下げた紅先生は、けれどそれ以上無理に誘うことはしなかった。
どこまでも私の意思を尊重してくれる紅先生に頭を下げて、さて帰ろうかと踵を返す。
「芳明」
再び呼ばれて、顔だけを振り向かせる。
その先の紅先生は何故だかとても寂しそうで、どうしてだろうと心底不思議に思った。
「……朝だけじゃなくて、いつでもうちにおいで。君が人を苦手なのは知っているから、秀麗や静蘭がいない時間帯でいいから」
「ありがとうございます。そのうちに、是非」
紅先生の方にきちんと向きなおって、改めて深々と頭を下げる。
そのまま振り返らずに、きた道を引き返し始めた。
紅先生には申し訳ないけれど、私は秀麗にも静蘭にも出会う気はないのだ。
彼女達はこれから色々な事を経験して、高みに上っていく人達。
私はそんな人達とは関係なく、あの時できなかったことを静かに積み重ねていきたいだけ。
というか、秀麗に出会ってしまったら、彼女の運気に巻き込まれる気がする……。
小さく深いため息をついて、荒れてきた都を見渡す。
この近くに農家はないから、まだ誰も起き出してはいないようだ。
郊外に行くほど活動時間が早くなるのは、やっぱり職業上の関係か。
特に今は、だんだん国が荒れ始めている時期だから 。
「少しでも食べるものを、って、農家の人達も必死だものね」
貴陽の土地は、そもそも農耕に向いていない。
開発されすぎたせいで、土地がやせている。
そんなことがわかるようになるまで、生まれた家の庭で必死に野菜を育てていたあの頃が懐かしい。
多分これから、地方からの輸入ルートもだんだん切れていくだろう。
食べ物もない、調味料もない、それどころか生きるために必要な塩もない。
「……塩が問題ね」
ナトリウム、カリウム、生きるために必要不可欠なミネラル。
水だけ飲めばいいというものでもない。
「大豆を醗酵させてお味噌を作ってみる? 駄目、失敗するのが目に見えてるわ」
今の時点でも大切な食料を無駄にはできない。
「……先生にお願いするしかないのかしら」
手に持たされた袋を小さく持ち上げて、思わずため息がもれた。
紅家当主とつながりがある紅先生なら、お願いするだけで大量の塩を手配してくれるだろう。
……たとえそれが、先生の本意ではないとしても。
この袋の中身も、野菜と引き換えるようにして毎回渡される塩。
びた一文持たない私は、こうやって生かされているのだ。
昔の人々は海に面していない地方でも脈々と生きていたんだから、何らかの方法でミネラルを採っていたんだろうとは思う。
けれど私には、その方法が思いつかない。
「……もっと本を読んでおけばよかった……」
悔やんでも、もう遅すぎた。
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