食料事情は芳しくない。
何年も何年も作り続けた堆肥のおかげで、私の畑はなんとか保っているようなものだ。
ここでこれなら、貴陽はもっと酷いだろう。
実際に、毎朝野菜を運ぶ度、転がって動かない人の姿がちらほらと見え始めた。
それが何を意味するかがわかって、思わず目をそらしてしまう。
飽食の国・日本。
貧富の差はとても激しかったけれど、ただ寝ているだけで1日3度の食事が与えられた私には、想像を絶する光景だった。
水分だけを摂取するから、棒きれのようにやせ細った身体の中で、腹部だけが異様に膨らんでいる。
黄色く濁った動かない目と視線があった瞬間、反射的に吐き気がこみあげてきた。
ようようの体で紅家の裏戸を引き開け、そっと身体を滑りこませる。
籠を下ろすと、思ったよりも肩が凝っていた。
どうやら気を張っていたらしいと苦笑していたら、背後から足音が聞こえる。
「 先生、今朝の」
「それをどうするつもりですか?」
紅先生だと信じこんで横に置いていた籠に手を伸ばすと、ひやりとした声が突きつけられた。
知らない声、だ。
けれど、誰かはわかる。
紅先生以外の男なんて、この屋敷にはもう1人しか残っていない。
「聞こえなかったのですか?それをどうするつもりだと、私は訊いているんです」
茈、静蘭。
紫、清苑。
ついに出会ってしまったと、身体が震えた。
こんなに避けて生きてきたのに、ついに出会ってしまった。
だとすると、次善の策は何だろう。
考えるまでもなく、もうこれ以上関わらないことだと答えが出る。
無言で頭を下げて踵を返した瞬間、強い力で肩をつかまれた。
反射的に振り返ると、きついまなざしとまともに目が合って、慌てて下を向く。
「これは、親切な方が提供してくださっている、大切な食料です。いくら飢えているとはいえ、勝手に持ち出されては困る あなた、それほど飢えてはいませんね?」
訝しげに言葉を止めた静蘭の手の力が、最後の言葉と共に強くなった。
食べ足りずに盗もうとした、比較的裕福な家の子供にでも思えたのだろう。
そんなことを冷静に考えている自分に、知らず失笑がもれた。
静蘭の力がますます強くなる。
さすがに痛いと眉を顰めたところで、慌てたような足音がやってきた。
「芳明!今日も来てくれたんだね、ありがとう」
「いえ……」
お確かめくださいとうながすと、紅先生は籠を覗きこんで安堵の息をもらす。
そして再び顔を上げて、静蘭を困ったように見た。
「静蘭、今日はずいぶん早いね。いつもならまだ寝てる時間じゃないか」
「こちらの壁が崩れているのを、昨日見つけまして。出仕前に直しておこうと思ったんですよ」
警戒の目をゆるめずに(そしてこめる力もゆるめずに)、静蘭はまっすぐに紅先生を見返す。
「旦那様、こちらは?」
この子供が盗もうとしていたと、その目が言っている。
私が何を言って無駄だろうということは、第一声を聞いた瞬間からわかっていた。
それに気づかないわけもないだろうに、紅先生はどこまでもいつも通りに笑う。
「ああ、そこの野菜があるだろう?いつも持ってきてくれている、芳明だよ」
「…………は?」
なんとも間抜けな声を出した静蘭が、慌てたような私を見た。
視線を感じても下を向き続けていたら、しばらくしてそっと手が離される。
「……申し訳ありませんでした。気が立っていたもので……」
「お気になさらないでください」
小さくかぶりを振って、昨日の籠を紅先生から受け取る。
来たときよりもずっと軽いそれをよいせと背負ったところで、名残惜しそうな紅先生に引き止められた。
「芳明、せっかくこうして静蘭とも会えたんだし お茶でも飲んでいかないかい?きっと秀麗も喜ぶよ」
紅先生の言葉は温かい。
温かくて、とても嬉しい。
けれど、私はそれに、うなずくことはできない。
「仕事が残っているので……それに、お茶を飲む暇なんてないはずですよ」
いつからか、「一緒に暮らそう」とは言わなくなった紅先生。
それが今の切迫した状況を、何よりもよく示していた。
痛いところを突かれたように顔を歪めた紅先生に礼をして、静かに裏戸をくぐる。
後ろは、振り返らなかった。
休むわけにはいかないの。
土を耕して種芋を植えて、苗を間引きして。
保存していた梅干しも、そろそろ様子を見なければ。
やることはいくらでもある。
ずいぶん山に慣れた人でも、獣道にしか見えない道なき道。
けれどそれは私にとって、何よりもはっきりとした道に見える。
水流豊富な川面から突き出したいくつもの岩を渡って、藪の中を通って。
竹林と深い森を抜けると、ようやく私の家に着く。
こんなに人里離れた場所じゃないと、うまく作物が育ってくれなかったのだ。
半野性児みたいな身のこなしができるようになってしまった自分が、少しだけ切ない。
「 さて。頑張ろう」
歴史になんて、名を残さなくてもいい。
誰にも褒められなくていい。
このちっぽけな私にできることをしたいだけ。
水を汲もうと桶の竿を肩に担いだところで、視線を上げかけた身体がぴたりと止まった。
……誰か、いる。
「……誰ですか」
私がここにいることなんて、誰も知らないはずだ。
紅先生でさえ、正確な場所は知らないのだから。
「誰なの?」
偶然迷いこんだだけなら、それでいい。
でも、ここに食料があると知って襲いに来たのなら 。
震えがきた。
全て奪われてしまうかもしれない。
そして、私は殺されてしまうかもしれない。
後ずさりしながら震える声を絞り出すと、がさりと大きな音がした。
姿を現したその顔を見て、別の意味で後ずさる。
「あなた、は 」
「……こんなところに、住んでいたんですか」
後をつけるのに苦労しましたと肩をすくめたのは、誰あろう静蘭だった。
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