ゆっくりと、ゆっくりと、人々の暮らしが元に戻っていく。
国の機能が回復していく。
新王はとんでもない似非だけれど、やはり霄太師の手腕が常識外れなのだろうか。
何をどうしたらこうなるのか、私にはさっぱりわからない。
それでも、太師がすごい人なのだとだけはわかった。
新王即位から3ヶ月、のれんを掲げる食料品店が表れ始めた。
中にはとんでもない高値を吹っ掛けているところもあったけれど、そのほとんどは無償で配付するも同然の値段だ。
先生によれば、朝廷がほとんどの費用を負担しているんだとか。
これ幸いにと塩と砂糖を少しずつ買って(もちろん物々交換だ)、家の備蓄に大事に保管した。
それからさらに3ヶ月が経って、道で死んでいる人はすっかりいなくなっている。
お店も通常に近い営業をしているところが多くなって、人々にも笑顔が戻り始めた。
「紅先生」
「何だい?芳明」
よいせと籠を背負いながら、優しい表情で立っている先生を見上げる。
「来週から、持って来るお野菜を元の量に戻そうと思ってるんです」
私の知る限り、もう飢饉が起こることはないだろう。
畑も少しずつ縮小してきたし、胡蝶にももう援助しなくても大丈夫だと言われた。
今度はただ遊びにおいでと頬をなでられてうっとりしたのも、いい思い出だ。
「 そうだね、もう大丈夫だよ」
泣きそうに微笑んだ先生にうなずいて、かろうじて死ななかった桜の樹に目をやる。
他の樹は丸裸になってしまったものもあるけれど、1割程度は元のまま佇んでいた。
あの桜が無事だったことを、どれほど神様に感謝しただろう。
「芳明、今日こそお茶をしていかないかい?今日は秀麗も静蘭も遅くて、一人で退屈なんだよ」
そんなことを考えていたからかもしれない。
先生の誘いに、今日は乗ってみることにした。
秀麗も静蘭もいないというし、彼らと会うことはまずないだろう。
ぼろぼろになった邸に通されて、心尽くしのもてなしを受ける。
秀麗が作っていったと思しきお饅頭をお茶受けに、かの有名な父茶を出された。
……山育ちでよかったと、これほど思う時はない。
ほのかに様々な漢方の匂いがして、想像を絶する味なのだろうと見当がついた。
「…………先生。お茶は漢方を突っ込むものじゃありませんよ」
「おや?わかったのかい」
「これでも山育ちですから。自分で簡単なものは煎じたりします」
それに、漢方はあくまで身体の働きを整えるためのものだ。
けして生活に必要な養分を摂取するためのものではない。
「これ飲んだからって、何も食べなくても大丈夫ってわけじゃありませんからね。ちゃんと食事はしてください」
原作に書いてあったことを思い出しながらつい言うと、驚いたような目で見られた。
「芳明、どうしてわかったのかな?」
「……何となく。何が入ってるのかもわかりませんけど、これだけごちゃごちゃ入ってるんだから、単なる滋養強壮じゃないだろうなって」
「……よくわかったね」
お茶を濁すように視線を下げて、曖昧に微笑む。
ちらりと見上げた先で切なそうに目を細めて、先生が独り言のように呟いた。
改めて私がお茶を淹れ直し、お饅頭をおいしくいただいて、秀麗達が帰ってくる前にとおいとまする。
先生は泊まっていきなさいと引き止めてくれたけれど、こればかりは譲れなかった。
お土産にともらったお饅頭の包みを大事に抱えて、暗くなりかけた道を急ぐ。
山に入った頃には、すでに目を凝らさないと道を見失いかけるほどだった。
足を滑らせてひやりとしながら川の岩を飛んで、家に着いて。
「 え?」
目を疑った。
荒らされた畑、開け放された扉、そこから散乱する割れたお皿や足の折れた椅子。
動物がやったには、やけに不自然すぎた。
嫌な予感がしながら家に入り、机に小刀でとめられた紙を見て、何となく誰が何のためにやったのかを理解する。
「……やっぱりそうなのかなあ」
よいせと小刀を引き抜きながら呟いたその時、背後でがたりと物音がした。
もしや戻ってきたのかと反射的に振り返って、そこにいた相手に絶句する。
「 何でいるんです?」
「芳明さん、これは一体 !?」
いや、質問に答えてくれよ。
棒を呑んだように立ちすくむ静蘭に内心で突っ込んでいると、我に返ったらしい静蘭が大股で入ってきた。
「誰がやったんです?」
「さあ……」
一応首を傾げている間に、さりげなく手元から小刀を取り上げられる。
権力を示すような装飾を施されたそれを見ながら、小さくため息をついた。
「何となく、相手はわかりますけど」
机の上に放置されたままの手紙に視線をやると、はっとした静蘭が素早くそれをつかみとる。
ざっと目を通した彼は、鋭く息を飲んだ。
「これは !」
「紅家の方ですよね、このお手紙」
「芳明さん、どうして怒らないんです!?貴女には怒る権利があるはずだ、こんないわれのないことを書かれて !」
「だって私、読めませんもん。何となく、何て書いてあるのかは見当つきますけど」
漢文を読む訓練をしてこなかった私は、読める漢字から推測することしかできない。
けれど、「紅邵可」「卑者」「禁」などの文字から、その意味は十分に読み取れる。
「先生に近付くなって書いてあるんでしょう?それ」
「……読めないんですね」
「商家の出とはいえ、私は文字を習う前に家を出ましたから。雰囲気でわかるだけです」
読めないはずなのにどうしてわかるんだと言いたげな視線に小さく笑って、そのまま続けた。
「潮時だったんです。私、貴陽を出ます」
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