冥界(というかエリュシオン)にも一応、1日のリズムはあるらしい。
朝と思しき時間に明るくなって、夕方と思しくなるとだんだん暗くなっていく。

らしい、というのは、私が時計を持ってき忘れたからで、もちろん神様のお父様達が持っているはずもないから。


冥界には絶対置いてある。
あの仕事量の鬼畜っぷりを見る限り、時計がないとおかしい。


ああ、ミーノスさん、また無理してないかなあ……。
あんまり無理しないでほしいと思うんだけど、それこそ無理な相談なんだろうなあ。




閑話休題。




まあとにかく、私の1日は、小鳥のさざめきとニンフのとろけるような声で始まるわけだ。


「姫君、起きてくださいな」
「起きてくださいな」
「ハーデス様がお待ちです」
「ずっと前からお待ちです」


やっぱり妖精、ちょっとチャンネルがずれている感がどうしても拭いきれない。


「あ、あの、今日こそ1人で着替えられるので!」


エリュシオンに来て早数日。
勇気を振り絞って言った言葉も、今日も今日とてあっさりと押し流された。


「まあ、まあ、そんなことをおっしゃいますな」
「姫君のお世話はわたくしたちの仕事」
「さ、お立ちになってくださいな」
「今日はどのようなお召し物がよろしいでしょう」


「できますってばあぁぁぁぁ……!」


あれよあれよと着飾られて、複雑に編み込まれた髪にくらくらしつつ、急いでお父様のところへ。


「おはようございます、お父様!」


駆け寄って挨拶をすると、無言でぎゅうと抱きしめられる。
けして苦しくはないそれが、毎朝嬉しくてたまらないのだ。

どちらかというと平均よりもやや痩せ気味の身体を、腕をいっぱいに伸ばして抱きしめ返す。
筋肉はしっかりとついているのが、洋服越しにもよくわかった。


……完璧な肉体美なんて嫌いだ……!(余分な肉を分けてやりたい……!)





前髪を少しひんやりした指がかきあげて、むき出しになった額に柔らかい感触があたる。

おはようのキス。
小さい子供みたいな扱いは少し恥ずかしいけれど、これをあのハーデス様にやられてると思えば、恥ずかしさなんてなんのその!
これを幸せと言わずして何とする!


「朝ご飯、もう召し上がりましたか?」


お父様がかぶりを振るのを見て、大きな手を取ってテーブルにつく。


大きくてありえないほど長いテーブルは、多分大理石製。
白くてすべすべで、触るとひんやり気持ちがいい。

本当ならばその両端に座るのが普通なのだろうけれど、私はいつもお父様の斜め横に座る。
さすがにお父様の上座は外せないから、せめてもの妥協案だ。


「今日もおいしそうなご飯ですね」


こくり。


「あ、メロン!大好きなんです、嬉しい!」


……こくり。


「トーストもさくさく!中はもっちりだし……おいしいー……」


すいっ。
たすっ。


「……え?このメロン、お父様のですよね?」


ふるふる。


「気にするなって……気にしますよ。こんなにおいしいんですもん、お父様にも食べてもらいたいです」


ふるふるふる。


「でも……」


ふるふるふるふる。


しばらく根比べが続いた後(ニンフ達がそこはかとなくおろおろしていた)、せめてもの妥協案として半分を返す。


「半分こ!これでどうです?」


どうだ、これなら断れまい!と自信満々で笑いかけたら、無言で頭をなでられた。
どうやら褒めてもらえているらしい。


「えへへ……ありがとうございます。食べましょう?」


朝食を終えると、お父様は執務のお時間だ。
その間は暇だから、神殿の中をふらふらとす……るわけもなく、お父様の脇でギリシャ語のお勉強をする。
実はいまだに、例のお手紙を渡せていなかったりするのだ。


せ、せめて、もうちょっと字がうまくなってから渡したいと思うのは、別に悪くないだろう……!


大体、古代ギリシャ語なんて、数ヶ月で覚えられるような代物ではないのだ。
内容が幼稚すぎるのもさることながら、文字だってもう少しこなれて書けるようになってからにしたい。

そんな風に思ってしまうほどには、ギリシャ語は文法も文字の形も難しすぎた。


「あー……もう、難しい……」


ぐりぐりとζを書きながら、ぺたりと机に突っ伏す。
お父様の執務の邪魔にならないように、ひっそりこそりと呟いた。


文字のバランスがとれない!
ζがζじゃない!!
何だこれは、速記文字か!

この!この!とひたすら書きなぐっていたら、いつの間にかお父様が背後に立っていて、死ぬほど驚いた。


気配がありません、お父様……!(心臓に悪い!)


「あ、あの、これはっ」
「…………」


慌てて手元を隠そうとしたら、頭に大きな手が乗った。


ぽす。
なでなでなで。


心なしか背後の空気がほのぼのしているのは、多分気のせいではないだろう。


「よく、書けている」
「……下手くそですよう」


拗ねて横を向いた私に(誰も気づかない程度に)苦笑して、お父様の手が私のそれに重ねられる。
ペンを握る手を包むようにされたその状態で、ゆっくりと動かされた。


α、β、δ。


小文字全てを何度か書くと、次は大文字を順に数度。
特にバランスが取りにくいものは、更に数度。


「あ、そっか。このカーブに気をつければいいのか」


特にゆっくりと動かしてくれるそのポイントで、気をつければいいところがわかった。
無言で手を離された後に自分で書いてみると、さっきまでよりも格段に上達している。
嬉しくて何度か簡単な挨拶を書いて、ふと気づいた。


……今なら、お手紙を書き直してもばれないんじゃないか?


ちらりと横目で窺うと、お父様は黙々と執務中。
他に人影はない。


……よし。


こっそりとあのお手紙を引っ張り出して、手元の紙(見るからに最高級品)(こんなものを手習い用として渡すお父様の価値観がよくわからない)をいそいそと広げた。


ら。




「……それは……?」
「ヒィ!!」




い、いいいいいつの間に背後に来ていたんだ、お父様!!
気配がないってば!!


慌てて隠そうとした手よりも早く、お父様が手紙の原本を取り上げてしまう。


「か、返してください!」


懸命に手を伸ばしても、うまくかわされて叶わなかった。
そうこうしているうちに、漆黒の瞳が文面の上を滑っていく。


へ、下手すぎる字を見られた……!


半泣きで諦めてうなだれていると、お父様がふるふると震え出した。
笑っているのかと思ったけれど、何やら様子がおかしい。


「お父様……?」


どうしたのかとおそるおそる声をかけた瞬間、勢いよく抱きしめられた。


「きゃあっ!」
……!」


泣きそうな声で感極まったようにそれだけを言って、ただひたすらぎゅうぎゅうと力がこめられる。
かと思えば、頬に何度もキスの嵐を受けた。


……多分喜んでいるんだろう、うん。
ものすごい喜びようだ。


「あの、字が下手で恥ずかしいから、もう1度書き直してもいいですか?」


あまりに恥ずかしい代物だったのでそうお願いしたけれど、ものすごい勢いでかぶりを振って却下された。
……あれ、ずっと残るのか……。(せめて文字だけでもまともなものにしたい……)


















(子育ての幸せを疑似体験するハーデス様。ヒロインは愛の力で、ジェスチャーをある程度理解できるようになってます)