「……しまった」


化粧ポーチ、会社に忘れた。
あれがないと明日の朝化粧ができない!というわけで、途中から引き返して会社に戻る。

新人?何それ、おいしいの?という感じのうちの部署では、私でも毎日2時間は残業だ。
今から戻っても、きっと誰かまだ仕事をしているだろう。


誰がいるだろうかと思いながらフロアに入ると、意外にもほとんど人気がなかった。
もう電気が消えている場所もあるそこで、幸村さんが一人残業をしている。


   幸村さん?」


思わず呼びかけると、幸村さんが勢いよく顔をあげた。
視線が私をとらえると、更に驚いたように目を見開く。


さん……どうしたの、こんな時間に」
「幸村さんこそ。もう9時になりますよ」


先輩達よりも新しく入ってきた幸村さんが残っているのは、正直意外だった。
そんな思いをこめて言うと、照れたような笑顔が返ってくる。


   明日、どうしても早く帰りたくて。明日の分もちょっと片付けてるんだ」
「あ、そっか。明日金曜ですもんね」


彼女さんとデートなのかもしれない。
幸村さんの彼女だから、きっと美人さんなんだろうなあ。
どんな人なんだろうか、一度でいいから見てみたい……。


黒髪ストレートの美人さんを想像してにやけていたら、「中高時代の部活仲間と久しぶりに会うんだ」と弾んだ声で言われた。
なんだ、部活仲間か……。
いや、そのなかに美人の彼女がいるのかもしれない!


「男所帯でむさ苦しいって思われるんだけどね。本当に最高の仲間達だよ」
「……男の人、ばっかりなんですか……」


それじゃあ彼女さんはいないのかとがっかりした私に、幸村さんは純粋そのものの笑顔でうなずく。
懐かしむように細められた目は幸せそうで、よっぽど楽しい思い出がいっぱいなんだろうとわかった。


「幸村さん、何の部活されてたんですか?」


机の上から化粧ポーチを取りながら、何となくそんなことを訊いてみる。

オーケストラとか天文部とか、そこら辺をやっていそうだ。
何にせよ文化系なんだろうと思っていたのに、返ってきたのは意外な言葉だった。


「テニス部だよ。これでも結構強かったんだ」
「テニス!?」


こんなに線の細い幸村さんが、テニス!?


信じられないと思わず顔をあげると、悪戯が成功したような表情の幸村さんと目が合った。
まさか冗談だったのかと思ったけれど、いつまで経ってもそうは言ってくれない。


「驚いた?」
「はい」
「ふふふ、だと思った」


……本当なんだ……。


現役の頃は筋肉がすごかったんだろうかと思いながら、ついまじまじと見てしまう。
そんな私におかしそうに微笑んだ幸村さんが、パソコンの電源を落として立ち上がった。


「送るよ。家、どこ?」
「え?大丈夫ですよ、これくらいの時間なら。それに多分、幸村さんとは別方向ですし」


神奈川県に住んでいる人なんて、そうそういるものじゃない。
先輩達もほとんどが東京住まいだし、幸村さんも多分そうだろう。


笑いながらかぶりを振ると、幸村さんが少し眉を下げた。


「駅まで結構遠いし、そこまで送るよ。俺は神奈川方面だから、そこまでしか行けないけど……」
「え?幸村さんも神奈川県民なんですか?」
さんも?」


思わず訊くと、驚いたように訊き返される。
幸村さんが神奈川県民……意外だ。


「最寄り駅は?」
「川崎です。幸村さんは?」
「石川町」
「……女子校ばっかの駅ですね……。朝、大変だったでしょう」


確かあそこの駅だけで、5つか6つくらい女子校が密集していた気がする。

自分もその中の一つに通っていたから言えるけれど、あそこは朝は女子校生の独壇場だ。
ホームに人が待っていられるスペースなんかない。
もちろん、電車が到着したら、階段を上ることもできない。


毎日改札に向かいながら、上る側から見たらさぞ気持ち悪い光景なんだろうと思ったほどだ。
しみじみとコメントすると、幸村さんも苦笑してうなずいた。


「俺は早くに駅を使っていたから、そこまで混雑に巻き込まれたことはなかったけどね。他に困ったことはあったかな」
「他?」
「……女の子が多いから、ちょっかい出されることも時々あったんだ」


恥ずかしそうにそっと言った幸村さんは、当時も絶対にものすごい美少年だったんだろう。


そりゃあ、世間知らずの女の子達にももてますって!
さすが、美形は悩みが違う!
もてて困るなんて発言、初めて聞いたよ!


「さすがですね、幸村さん!!」
「……何だか、あんまり嬉しくないなあ」


小さく苦笑した幸村さんに「行こう」とうながされて、一緒に会社を出る。
いつの間にか一緒に帰ることになっているけれど……どうせ同じJRだし、まあいいか。
途中で幸村さんは京浜東北に乗り換えるだろう。


「川崎だったら特急が止まるし、通勤には便利だね」
「はい。その分混みますけど、早く着けるんで楽です」
「俺もその辺りに通ってたけど、朝は大変じゃないかい?」
「そうなんですよ!乗る人も降りる人も多いんで、下手すると乗れない時があるんです」


ジャンクション駅ならではの性で、朝の混み具合は半端ない。
うっかりすると人の波に流されて、乗り損ねることもしばしばだ。

朝の通勤ラッシュをなめていました……。
神奈川県でも混むところは混む。


「でも、あの近くっていうと……星荒峰ですか?」
「いや、立海大付属」
「立海大付属……名門じゃないですか!」


共学に名門は珍しいから、よく覚えていた。
そんなところに通っていた人が身近にいたなんて、ものすごい驚きだ。

けれど同時に近所に通っていたという親近感もわいて、その後の会話は一層弾んだ。