ささやかな幸せが、何よりも嬉しくて。
菩提樹の祈り
「幸村先輩、こんばんは!」
「こんばんは。今日はどんなことがあった?」
あれから1ヶ月半。
幸村先輩に教えてもらうようになってから、だんだんと、本当に少しずつだったけど、勉強が楽しくなってきた。
だって先輩、絶対に怒ったり私の考えを否定したりしないんだもの。
「後でお話しますから、まずはお風呂に入ってください」
笑いながらぐいぐいと背中を押す振りをすると、幸村先輩も微笑みながら追い立てられる振りをした。
「足、ずいぶんよくなったね」
「はい。もうすぐ完治です」
「よかった」
私の頭を軽くなでた幸村先輩の姿が洗面所に消える。
もうすっかり、幸村先輩が着替えを持ってくるのも普通のことになった。
お風呂上がりの幸村先輩はいつも色っぽくてどきどきするけど、それにもだんだん慣れてきた。
「お風呂、いただきました。それで、今日は?」
「みんなで数学の先生をからかったんです。先生、明らかにカツラかぶってるのに、自分じゃばれないと思ってるんですもの」
体育の後に若い男の先生の授業があると、みんなでわざと着替えるのを遅くしたり。
かっこいい先輩に、アイドル気分で騒いだり。
そんなとりとめのない話でさえも、幸村先輩は楽しそうに聞いてくれる。
……もちろん、勉強もしっかりするけれど。
「ここにxを代入するから……こうかな?」
「そうそう。よくできました」
幸村先輩に褒められるの、嬉しい。
もっと頑張ろうって思える。
こんな人が部長なんて、お兄ちゃんは本当にうらやましいなあ……。
ほう、とため息をついたら、幸村先輩が心配そうに首を傾げた。
「どうかした?」
「いえ、なんでもありません。ちょっと考えごとをしてて……」
慌ててそう答えても、幸村先輩はまだ心配顔だ。
「そうかい?それならいいんだけど……何かあったら、俺に相談してほしいな」
「……ありがとうございます」
やっぱり、優しい人。
そんなことをお兄ちゃんに言ったら、何とも微妙な顔をされた。
「、それってさぁ……幸村のこと」
「違うよ、好きなんかじゃない。私と先輩じゃ、どう考えてもつりあわないじゃない」
お兄ちゃんが言おうとしたことを遮って、先に否定する。
思いがけずきつい言い方になっちゃって、お兄ちゃんがびっくりしてた。
だって、仕方ないじゃない。
先輩には、もっと綺麗で頭も良くて、一等級に優しい人がお似合いだ。
お世辞にも頭は良くないし、がさつだし、綺麗でもない私じゃ駄目なんだよ。
幸村先輩だって、友達の妹に好かれても困るだけだと思う。
告白されて断ったら、友達との関係までぎくしゃくしてしまいそうで。
「でもさぁ……」
不満そうなお兄ちゃんにはケーキをあげて(それでころっと全部忘れてご満悦になるのも、ちょっとどうかと思うけど)、自分の部屋で参考書を開く。
今日は幸村先輩は来ない。
「……好きなんかじゃ、ないもん」
この想いを封じ込めて、遠くから祈ろう。
先輩がお似合いの彼女と出会えますように。
もう出会っているなら、幸せになりますように。
先輩が来ない日なのがよかったと思える時が来るなんて、考えもしなかった。
教科書に書き込まれた幸村先輩の字を見ながら、早くも食べ終わって部屋に入ってきたお兄ちゃんに呟くように声をかける。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「家庭教師、他の人に頼めないかなあ?」
「ぶっっ!?」
考えて考えて、ようやく出した結論。
もう、先輩には会わない方がいい。
「ちょ、ちちちちょい待て、おおおお落ち着け、な?」
「お兄ちゃんが落ち着いてよ」
盛大に吹き出した上に笑えるほどの慌てっぷりを披露してくれたお兄ちゃんにとりあえず突っ込み、大きくため息をつく。
「これでも色々考えたんだよ。別に幸村先輩じゃなくでもいいんだし、もっと他の人の方がいいんじゃないかと思って」
「やややや、ほほ他の奴に頼むのはやめとけな、な!?」
お兄ちゃんがおかしくなってるけど、そんなこと関係ない。
「ねえ、柳さんとか柳生さんに頼めないかな?」
幸村先輩とお話した中で知った名前。
2人とも、とっても頭がいい印象だった。
「や、幸村にしとけな、な!」
「……そんなの、できないよ」
幸村先輩が好きなんだってわかっちゃったから、もうお願いはできないよ。
「先輩もきっと、もっと他のことに時間を使いたいだろうし」
ぽつりと呟くと、お兄ちゃんはなんとも微妙な顔になった。
「あー……あのな、。幸村はんなこと思ってねぇって、絶対」
むしろ喜んでると思うんだけどなあ。
何、それ。
どうしてそんなことがわかるんだろう。
首を傾げていたら、突然お兄ちゃんがぱっと顔を輝かせた。
「そうだ!、木曜に病院行くんだろぃ?したらさ、その後うちの学校に来いよ!ギブス外すんだったら楽に来れるだろうし」
「……何でいきなり」
「受験する学校ぐらい、下見に来いって。時間があれば校内も案内してやるし」
にかりと笑って言われれば、もう断る理由もない。
どうせ、その日は暇だし。
うまくいけば、その場で幸村先輩にお断りして、すぐに他の人に家庭教師をお願いできるかもしれない。
「カテキョ、頼みたいなら自分でやってみろぃ。柳と柳生のどっちがいいかも選べるしさ」
「……うん。ありがと」
誰もいないのに、わざと内緒話みたいにこそりと言ってくれたお兄ちゃんが嬉しかった。
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